鬼の居ぬ家

(ん!)


 香月壱心邸宅。


 明治の重鎮と化し、福岡藩のトップに立った彼の家は今やお屋敷になっていた。ただ、普通のお屋敷ではなく暗殺や間諜を警戒するためにからくり屋敷に近い様相となっていたが。


 そんな屋敷の中で、金髪の美少女は跳ねるように立ち上がった。そして彼女の隣に座っていた妙齢の女性に目を向ける。妙齢、とは後の時代の感性でこの時代からすれば年増扱いされてしまう彼女はそれを見上げることもなく告げた。


「正解でございます。茶道具を持って裏へお隠れになってください」

「はーい」


 頷きつつ、大きな掛軸の左から二番目の釘を回す少女。そのまま釘……のようなものを引くと壁が扉となって開く。彼女は掛軸を暖簾のように潜り、滑り込むように中に入った。そして扉を閉まった後、外見は釘である取手が回ると最初からそこに少女はいなかったような静けさが取り戻される。


「さて……」


 取り残された女性……宇美と名付けられた彼女は室内をざっと見渡して金髪の美少女、リリアンが居た痕跡を排除する。一番厄介なのは金髪だ。畳や木目の上ではそれほど目立ちはしないが、見つかるとそれを証拠にまた来ることになる。


(壱心様曰く、江戸より戻って来られた時には異人を連れて来られるようですから奴がもうしばらくの間来なければ楽だったんですがね……)


 屋敷の主が出かける前に言っていたことを思い出しつつ今度の来訪者が来るのを待つ。壱心が居ないのを知っているはずだが、奴はそれをいいことに長居することだろう。全く以て迷惑だった。


(せめて、動き回らないように監視するだけですね……最悪、毒でも盛りましょうか? 腹痛を起こす程度の)


「ごめんくださいませー!」


(来た……)


 宇美が物騒なことを色々と考えている内に七面倒臭い客がやって来た。彼の名は香月利三。この屋敷の主の弟であり、ビジネスパートナーである。無視するわけにもいかないので宇美は応対に出た。


「あぁ宇美さん。壱心兄さんに報告と届け物があってね、ちょっと入らせてもらえないかな?」

「大変申し訳ございませんが、ご存知の通り閣下は外出しておりまして。日を改めていただきたいのですが……」


 好青年の顔で笑ってみせる利三に同じく笑顔でちくりと刺しておく宇美。同時に彼の隣に無言で立っている咲夜にも笑顔で威圧しておいた。咲夜は来た時のまま、やはり無言だがゆっくりと目を逸らす。


(私、別に悪くないんだけどなぁ……)


 咲夜にも言いたいことはあった。そして、宇美もそれを分かってはいる。ついでに言うのであれば利三だって歓迎されていないのは理解している。皆、それぞれで思うところはあるが、ここに居るのだ。


 そんな思うところのぶつかり合い。しばしの無言を生むが最終的にはこの家一番の権力者の弟がその強権を振りかざして室内に入ることに成功する。





(……はぁ、また来たんだ……)


 隠し部屋より外の様子を窺いつつ嘆息するリリアン。この四畳分の避難部屋には生活に必要な最低限の設備と道具が揃っており、長期戦に至っても問題ない。とはいえ、自宅で寛いでいるところを邪魔されて快い気分になることはないだろう。


(早く帰ってくれないかな……)


 室内に通されたのが利三であるのを確認すると彼女は部屋の奥に敷いてある布団の上で横になった。これ以上外の気配を窺ったところで注意力散漫で宇美と話している利三の様子が分かるだけなので意味はないからだ。一応、外から聞こえてくる話では落ち着きのない利三を藩の政商として任じるという話が行われており、本人たちからすれば大きな話だが、リリアン的にはしばらく動きはなさそうだ。


(んー……早く帰って来てくれないかなぁ……)


 同じような言葉ながら全く異なるニュアンスの声を内心で漏らすリリアン。横になっていても聞こえてくる話の内、壱心が外国人を連れて来るかもしれないという話を聞いてのことだ。

 壱心の性格上、他者にこれからの行動を話す時には本人の中ではある程度、既に話が固まっているという事。つまり、近い未来この地に異人を連れて戻って来るのだろう。そして、もしこの国に大手を振って外国人が入って来るようになれば容姿が異国の人間であるリリアンでも普通に暮らすことが出来るかもしれない。


 少なくともリリアンはそう考えていた。


(義父様が異国の方々をたくさん連れて来れば、私も外に出られる……!)


 今はこの国の重鎮である壱心が異国の手の者であるという噂を立てられぬようにリリアンが壱心と共に行動することは殆どない。あるとしても自宅内のみだ。その上、彼は基本的に仕事がある。自宅にある探られたくない者から相手を遠ざけるために自身の手の者以外の他の誰かといる時は外にいることが殆ど。それがリリアンには非常に不満だった。理屈は分かっていても嫌なものは嫌なのだ。


(……はぁ、そもそも私の変装を見破れる人はそんなにいないと思うし外に出ても大丈夫だと思うんだけどなぁ……宇美さんも義父様も心配性だから……)


 籠の鳥のようになっている現状を嘆くリリアン。壱心の自宅を警護する手練れのくノ一である宇美を筆頭に、壱心一派の者たちから英才教育を受けている彼女。

 正直に言うのであれば、彼女が普通に過ごす程度の触れ合いで誰かにその正体がバレるようなことはないと自負している。また、仮にバレたとしても逃げられるという自信もあるのだ。


(んー……でも、義父様がダメっていうからしないけど……)


 そんなに自信があるという彼女が外出しないのは偏に壱心に見限られるのが嫌なため。そして、内心ですら言葉にはしないが心の奥底で眠っている幼き日の恐怖の体験が居座っているからだ。

 幼少期に見知らぬ大人の男に本気で殺されそうになった記憶。禁門の変の記憶はそう簡単には消えやしない。

 その恐怖の記憶がこびりつくように残っているのをどこかで自覚しつつも彼女が外に出たいのは同じく今もまだ色褪せることのない出会いの記憶の主、壱心のためだった。


 色褪せることない記憶は何てことのない日常によりさらに鮮やかに、そして数を増やして彼女を彩っていく。彼女の遺伝子と壱心の食生活に合わせた結果、この時代におけるこの国の成人女性と変わらぬほど大きく育ったリリアン。

 彼女は恐怖の記憶に負けない強い意志を瞳に宿して天へと手を伸ばす。瞼の裏に浮かぶのは自分を変えた切っ掛けの日のある言葉。


(あの時の知らない人の言葉……宇美さんは気にしなくていいと言ったけど、あの言葉は私が受け取ったの。だから、tinyな私とは早くお別れしたい。早く義父様の隣に立って支えられるようになるの……!)


 リリアンに強い意志を持たせたのはある男の言葉。その男は、この国のために、そして壱心のために命を懸けたという。


 彼の名を、加藤司書といった。


 その日、彼は壱心が居ない間に今の壱心の家ほどは広くない前の壱心家を訪れていた。加藤はその家の中に壱心の手の者である女性以外の何者かがいるというのを知った上で来訪し、その正体を探らずに頼み事だけをして去っていたのだ。


『誰かは知らぬ。だが、壱心が決して表に出さない誰かがいるのは調べがついている。咎めはせん。だが、思うところがあるのなら儂の頼みを聞いてくれ。どうか、自身の命すら勘定に入れて切り捨てかねない奴のことを支えてやってくれ……!』


 藩の上層部。まして、明治の元勲と称され国の中でもトップクラスの男が名も知らぬ相手に頭を下げるという非常事態。天井裏から様子を窺っていたリリアンにもその異常は伝わっていた。


 だがその時の彼女が考えたのは加藤の思いを託されたということではなかった。藩の上層部の人間だからといって、自分の擬態に気付くわけもない。そんな自身の力量に対する自負心が最初に来ていたのだ。そして、加藤の言葉は下にいる誰かに向けたもの。


 ……そう考えて、心にわだかまりが生まれたことに気付く。


 彼が帰った後に彼女はすぐに天井から降りる。同時に、宇美に自身の隠形を確認してまず気付かれているという可能性はないと褒められて自負心を満たす事に成功した。だが、同時に心に沈んでいた泥が形を成していることにも気付く。

 その泥の形は落胆。自負心を満たしたばかりというのにそれは何故か。自分は今褒められたはず。そう思ったリリアンは自分の気持ちの形を見つめ直す。


 聡明な彼女はすぐに気付いた。加藤の言葉が自分に向けられたものではないと暗に宇美から告げられた気がしたことによる不満がこの泥人形を生んでいるのだと。

 では、その人形の心はどうなっているのか。自分はどうしたいのか……しばらくリリアンの日常には影が降りることになった。


 そんなある日、加藤は切腹した。


 加藤の死によって答えは迷宮入り……悩むことに疲れ始めていたリリアンがそう考えた時、壱心が福岡に戻って来た。喜んで壱心を出迎える彼女だが、彼は何やら疲れた顔をしている。

 話を聞くと大きく出世したらしく、家中が大騒ぎ。リリアンも当然の様に喜び、祝宴の準備を手伝った。盛り上がる香月家。近隣、知人を巻き込んでの大宴会。


 ……だが、宴の主人公はしばらくして姿を消した。彼が席を外したことに気付いたリリアンはすぐに彼の気配を探る。そして彼女が彼を宴の中心に連れ戻そうとした時、少女は月明りの下でただ一人表情を険しいままに遠くを見ている壱心を見ることになる。その時、リリアンは迷宮から脱した。


 漠然とした壱心への思慕は、ここではっきりと切り替わる。声が聞こえた。誰かの声が。リリアンが声をかける前に壱心は宴の中に戻されていく。その時、彼の顔は既に先の色を消してその場に似つかわしい、満更でもない笑顔を浮かべていた。


(……違う。アレは、違う……)


 誰が見ても紛うことない祝賀の席。だが、リリアンには違うものに見えた。全ての重みを背負い、皆が望む形がただ一人によって作り上げられている姿が。そして彼女は悟る。


 彼を下から支える者こそ多いが、彼を隣でそっと支える者は殆どいないといっていいことを。


 加藤の言葉が脳内で反響する。そして、自らと壱心の日常が日めくりカレンダーのように散り、足元を埋めていく。彼にとって、私は一体何だろうか。そんなことは分かり切っている。被保護者、守るべき対象だ。

 私は彼に何をして来たか……特に、何もしていない。主に守られることばかりで彼の行動範囲を狭めている。現に、今とて貴重な人手を割いて彼は自分を守ってくれているではないか。このままではいけない。こんな状態でいつまでも自分が寄りかかっていればいつか彼は倒れてしまう。そうすれば、斃れる前に彼は……


 そんな、悲観的な未来がこれからの日々に色をつけようとして来る。沈みそうになる彼女。だが、彼女は何も持たない少女ではなかった。溺れそうになる中で彼女は自負心によって浮上する。即ち、自分が壱心たちの英才教育を受けた者だという自負。


(寄りかかるのがダメなら、彼の隣で彼を支えられるだけの存在になればいい……いや、そうなりたい。私は……あぁ、あの人が言ってたのって……)


 まだどれだけ背伸びしても少女としか言えなかったリリアンは、決意した。その努力の一歩が、外の世界を広く知る事……そして彼女は目を開く。


(……うん。不貞腐れてる暇はない、ね……せっかく、宇美さんが私にも聞こえるようにお話してくれてるんだから……)


 自己の気持ちを確認した彼女は布団から跳ね起きる。そして、静かに外の世界の情報に耳を傾けるのだった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る