鬼の居ぬ間
1870年、福岡。
この地の長である知藩事、香月壱心が江戸に出向いて横浜で彼の旧友を出迎えている初夏の頃。福岡城より西の地、下級藩士の邸宅がずらりと並んだ西新という町の外れでちょっとした事件が起きていた。
「利三様、薬谷様よりご連絡です。壱心様より製造のご命令をいただいた薬、ごく少量ながら安定供給のめどが立ったとのこと」
事件が起こったのは西欧研究室という建物の一室。旧藩主が藩主だった頃、正確には最後の藩主ではなく先代藩主がその権力をふるっていた頃に現知藩事から提案して造ったもの。そこで、報告が行われようとしていた。
「んんっ……どっち? オリザニンの方なら報告は要らないけど……ペニシリンの方?」
「その通り、ペニシリンにございます」
眠そうに金勘定していた利三が顔を跳ね上げた。そして金を机の上に無造作に放り投げると報告者の下に駆け寄る。彼にしては珍しい行動だが、誰もそれを不自然と思うことはない。
「咲夜さん、それ本当!?」
「えぇ」
「……やっとかぁ、これで壱兄ぃに白い目で見られずに済む……」
咲の部下……もっと言うのであれば彼女の親戚である咲夜という女性の目も気にせずに若者らしい喜びを見せる利三。だが、咲夜は彼の喜びがどこに向けられているのかを正確に理解していた。
(まぁ、本音はリリアン様を見つけたいが故に壱心様の家に入りたいだけでしょうがね……家に来るのはいいが仕事してるのかという目、特に威圧しているわけではないですがせっつかれている側からすれば戦々恐々ですし……それが壱心様のものとなれば猶更……)
目の前の上司の喜びようを見て咲夜はその裏を考える。利三の喜びの裏には壱心の視線に対する畏れの他に期待に応えるという敬愛の念が込められているが、彼女には壱心に対する恐怖しかない。
(……転属させられたこと以外には大して不満もないけど、例えあったとしても何も言えない自信があるわ……)
情けない自信を抱きつつここに配属された時の事を思い出す咲夜。元公儀隠密の端くれに位置していた彼女がここに来た切っ掛けは幕府が倒れて行く当てを決めかねていた折にやって来た姪の誘い。能力はあれど、性別や気性の問題から爪弾きにされていた容姿端麗な姪が何やら維新の英雄に重用されているらしいとの噂は聞いたことがあったので彼女の誘いを受けたことだ。
のこのことやって来た彼女を待ち受けていたのは新時代の洗礼。それにより身に着けたのが英会話能力と四則計算以上の算術。それを両手に引っ提げて彼女は住み慣れぬ九州に飛ばされていた。
その際、初めて咲に案内されて壱心に出会った。その時に向けられた人をまるで物のように見る目。姪には劣るとは自覚しているが自らの容姿に多少は自信を持っていた彼女。美貌を活かして壱心に取り入り、
(……汚い仕事もやって来た。厳しい人の下にもいた。色んな人と接し、必要とあらば
まだ女と侮る侮蔑の視線や自分の物にするという好色な視線があった方がマシ。そう思わせる目を思い出し、咲夜はこれ以上思い出すと精神衛生上よくないと切り上げる。
壱心からすれば歴史的な発見である抗生物質、ペニシリンの機密事項に少しでも触れてしまう人材ということで極めて慎重に品定めしていただけだ。だがしかし、耐性のない人にとっては恐怖を抱くものだったらしい。まして、赴任した先にいたのがちょっとアレだったため、二重にダメージを受けている。
そのアレだった人こそ、彼女がこの地でやるべき仕事の大部分を占める存在。名を
そんな彼と思わしき影が今まさにこの部屋の外に映っている。
「失礼します。利三殿……おっと、咲夜さん。つまり、お話は既に?」
「薬谷さん! よくやってくれました!」
「いえいえ、これも壱心様のご加護があったからこそのことでございます」
(出た、狂信者……)
登場と同時にアレっぽさを遺憾なく発揮してしまう薬谷。咲夜はげんなりしそうになるのを取り繕う。
この男こそ、彼女が壱心に対して未知の恐怖を抱いた理由の一つだった。新天地に赴任して最初に見たのが彼女の知らない器具類を扱うのに夢中でこちらのことを無視して延々と何か呟いていたかと思いきや、壱心の名を出すだけで梟のように首の角度を変えてテンションを上げる変質者だったのだから仕方のないことだ。
加えて、彼だけでなく室内にあった材料も変だった。
その上、注意して来た相手の素性を尋ねれば醤油屋と答えられてしまえばもう何が何だか分からないのが当然だった。
そんな流れで一番まともな調理材料がコーン油とかいう油と火を起こすには心許ない細かい炭ぐらいだったという事実。咲夜は打ちのめされた。結果として初任日の咲夜から最初出された質問がこの地での食事に関するものだったのは仕方のないことだろう。
一応、あれは食べ物ではないという説明と共に食いしん坊キャラというレッテルを貰った咲夜は心象最悪でこの地で活動を開始することになるが。
(……まぁ、食べ物が美味しかったから今となっては本当の食いしん坊になってしまったのは…………でも、動きには差し支えないし。問題なし)
レッテル、そう言うには少々最近の帯を締める位置が変わってきている気もするが給料はいいこの仕事で帯の買い替えでそんなに困ることはない。そういうことにしておいた咲夜だが、目の前の男二人は話を続けていた。
「壱心様への報告はお済でしょうか? よろしければ、こちらで書面を
「研究、一段落したんでしょう? 少し寝たらどうですかね?」
「んんんんん! 気分が高揚して眠れませんぞ!」
(ちょっとうるさい……)
どうやら薬谷は徹夜明けらしい。凄まじいテンションだ。先程まで報告を受けて喜び勇んでいた利三が逆にクールダウンしてしまう。この流れは咲夜の出番だ。現に利三の視線がこちらに泳いで来ている。
溺れかけている者を救うために咲夜は無言で動く。綺麗な姪の誘いを受けた後に手に入れた武器を使うだけが彼女の仕事ではないのだ。
寧ろ、本業はこちら……と言うには少し外れているが、使うのは同じ……体術。
「ッフ……」
彼女が咲に推薦されてここに来た理由、それは暴力で後遺症もなく相手を綺麗に沈めることに定評があることだった。
壱心の本拠地である福岡の地には壱心のことを気に入らない者が多数いる。他の地で壱心のことが気に入らない者がいれば壱心本人を狙うだろう。それならば自分で対処するため相手に応じた活殺が自由に出来る。
だが、この地であれば壱心に嫌がらせをしようと思えば様々な手法が使える。その一つが、利三……引いては壱心の会社を攻撃することだ。だがそんな明確な悪意を持つ敵でも相手によっては正当防衛を主張したところで色々と揉め事に発展する恐れがある。それに対応するために派遣されたのが彼女だった。
「……いつもありがとうございます」
根が非戦闘員で徹夜明けの相手を寝かしつけることなど朝飯前。だが、利三に礼を言われた咲夜はふと内心で首を傾げる。
(私の仕事、この人を殴る事じゃないんだけどなぁ……)
本来の仕事、襲撃者への対応ではなく守るべき相手に攻撃するという謎の行動を「いつも」と呼ばれる頻度で行っている自分の役割について悩む咲夜。だが、悩む暇もなく彼女に新たな仕事が足される。
「じゃ、報告書作って壱兄ぃの家に行きましょうか。護衛お願いしまーす」
(今度はこっちのお守か……)
護衛兼秘書は本来の仕事。だが、明らかにそれだけでは済まない予感を抱きつつ咲夜は表面上だけ笑顔を作って返事をするのだった。
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