出迎え

 大村との会談を済ませた壱心だが、彼は引き続き東京の町に残っていた。だが、今日壱心がいるのは横浜。供は相変わらず咲で、彼らがいる場所は横浜港。初夏の日差しが潮風に溶ける中で彼らは沖を眺めて佇んでいた。


(んーむ……大村さんとの会談、感触はまずまずと言ったところだが……どこまで受け入れてくれるか。あの人、兵学者としては超一流だが医者としてはアレらしいからなぁ……)


 沖を眺める壱心だが、目の前の光景はただ視覚情報として通り抜けるだけで頭の中には入って来ていない。彼の頭の中を占めているのは先日の大村との会談だ。

 その会談のトピックスとしては、壱心から大村に訓練に関して塹壕や厳寒、酷暑などへの対応のために蝦夷や沖縄での実地訓練を行うことの提案。徴兵制への賛成意思表明。脚気への対処法。対外政策の意見……などなど盛りだくさんだった。

 対する大村から壱心への話は先の襲撃対処への感謝の品とフランスに留学する前の西園寺公望と明治新政府の大重鎮である木戸孝允を紹介して来たこと。そして木戸と壱心の橋渡しとして幾つかの密談を持ち掛けてきたことだろうか。


 そんな盛沢山の内容でお送りした会談。普通であれば歴史的な偉人と出会った興奮の余韻に浸ってもおかしくない中、壱心が一番気にかけているのは最も手応えが微妙だった脚気への対処法だった。壱心は珍しくこの問題を今も引き摺っている。彼からすればかなり深刻な問題だと認識しているのだが、周囲の反応がどうも今一だったのだ。


(予防という概念があまり根付いてないからなぁ……何やかんやで豆腐をごり押しすることには成功したが……まぁ、脚気への特効薬が出来るかもしれないってことだけでも伝えられたんだからマシと言えばマシか……)


 一応、権力者である壱心が効能のある薬を出せば否定されることはないだろう。その薬が効く理由や作り方などをどこで知ったかについては今は亡き加藤が遺した策が有効になる。即ち、死人に口なしという策。今は亡き維新の功労者との約束で教えられないと言えば戊辰戦争の怪傑と他称される壱心を前に無理矢理聞き出すということも出来ない。そんな狡っからい策だ。

 ただ、その策は壱心にとって大いに役立つもの。冗談のように話してはいるが、加藤が自らの死を前に壱心の行動を束縛しないようにかなり考えて作った物だ。


(尤も、定期的に外国の最新情報を仕入れているというパフォーマンスが必要になるがな……最悪、リリィの事をダシに使って顔も知らないリリィの父親を悪魔と罵られ、亡命した天才に仕立て上げるという手もある……)


 そんな恩人の策に加えて碌でもないことを考える壱心。しかしそれは最善の道がないものかと思案している最中の寄り道であり、基本的にはそんなことをしなくとも方法はある。

 そう思っているところにふと視線を感じて壱心は自身に向けられている視線の元に目を向けた。


「何だ?」

「……そろそろ来たようですが?」

「お……あーアレっぽいな……」


 咲の白魚の如き指の先を辿ると沖に船影が見えた。壱心はそこで思考を中断して切り替え、確認のために懐から書状を取り出す。


「……見ても?」

「別にいい」


 いきなり何を見始めたのか気になった咲が壱心に寄り、書状を覗き込む。潮風の中にふわりと甘い香りが漂った。


(これは……ヘリオトープ? あんな高い物を……)


 咲から香る匂いを瞬時に嗅ぎ分ける壱心。一歩間違えば変態だが、生憎既に人間として数歩間違っているので問題ない。しかし、それにしても舶来品の高級香水を身嗜みとして使うだけ稼いでいるらしい咲。気になって彼女の顔へ視線を向けると書状を見ると言って近づいていた彼女の端正な顔は既に至近距離に来ていた。


(……こいつにしては珍しい程に近いな……まぁ、それはそれとして配下の取り分を分捕ったりしていないかが気になるところだ……こんな高い物、金とコネがないと手に入らないだろうに……)


 妖しき魅力が漂う横顔のことはスルーして実務上のことを考える壱心。確かに、能力に見合うだけの取り分を得るのを咎めることはしていない。だが、取り過ぎると後々、抑えきれずに困るだろう。利害関係というものは人を変えるのだ。また、コネに関しても壱心は思うところがあった。同時翻訳が出来る人材を育成して要人の秘書として送っているのでコネ自体は簡単に形成できる。だが、その私的利用をされてしまうと貸しが出来てしまうのだ。


(尤も、その辺に関しては俺が如何こう言うよりも恵美の監視の方がキツいから何かあれば通達が来てるだろうが……)


「これは……一応確認ですが、この書面は壱心様の同郷の士で友人の安川新兵衛様ですよね?」


 近寄って来た咲から色々なことを考えていると、彼女は書面を読み終えたようで壱心に質問して来た。壱心はこれまで考えていたことを一度棚上げにして彼女の問いに答える。


「あぁ、そうだ」


 壱心は端的にそう答えた。すると、咲は少し言葉を選ぶように逡巡する素振りを見せる。


「……随分と礼儀正しいご友人をお持ちの様ですね」


 咲のその言葉に壱心は思わず少しだけ笑ってしまう。彼女がそう思うのも仕方のないことだ。安川から送られてきた書面は、彼の出立時の態度とは全く異なる様子で送られてきたのだから。


『福岡藩知事 香月 壱心殿


 ご無沙汰しております。先の手紙では知らぬこととはいえ、ご無礼仕ったこと、大変申し訳ございません。訪問時に直接謝罪いたしたいと思います。処分は身共の列強視察の報告だけでも聞いていただき、その後お申しつけくださいますよう平にご容赦願います。

 さて、まずはお祝いが遅れて大変申し訳ございませんでした。この度の知藩事へのご就任、誠に喜ばしいことと謹んでお慶び申し上げます。これも貴殿の日頃のご努力と卓越した実績の賜物と拝察いたします。今後はご自愛なされると共に、福岡藩の更なる発展にご尽力されますことを心よりお祈りいたします。近日中に藩に戻り、列強国視察の報告をさせていただきたいとは思います。以前より報告しておりました外国人技術者もその時に連れて参りたいと思います。

 本来でありましたら、すぐにでもお祝い申し上げたいところでした。ですが、状況がそれを許さないため、まずは書面にてご祝辞させていただきました』


 今一度、安川から送られてきた文面を見て壱心は苦笑しながら読み終えたというのに未だ近くに残ったままの咲に告げる。


「まぁ、海外に行っている間に色々あって藩主みたいな地位になったと言われればこうなっても仕方ない……内面がどうであれ、実情を知らぬ者からすれば外側だけで判断してしまうだろう」

「……そうですか」


 咲の言葉で会話が途切れる。しかし、船影は動くのを止めることなく近付いており今や船上で忙しなく動いている人々が見えるようになっていた。


「……そういえば、もう一つの書面は見せたか?」

「もう一つ、とは?」


 もう四半刻もせずに停泊するであろう船。その姿を前に壱心は咲に問いかけた。今日、壱心たちが迎えに来たのは先程の書状の差出人である安川だけではない。

 寧ろ、メインとなるのは今から壱心が咲に見せる書状の差出人の方。


「坂本さんからのだよ」

「坂本……」


 壱心の知人で安川らと共に海外に出かけた坂本と言えば彼女の頭に過るのはただ一名だけ。


「坂本龍馬殿ですか?」

「その通り。書状では面白い外国人を連れて来たということだが……さて、木戸殿の密約。そして、藩知事としての権力……早速使える時が来たかもなぁ……」


 幕末に新たな時代の幕開けを強い口調で告げに来た黒船。今度の船はこの国に何をもたらすのか。


(依頼通りに行ってくれれば幸いだ……さて、こっちの準備は出来ている。何が来るかは来てからのお楽しみだ……)


 今は昔、日本中を騒がせた外国船。かつての香月壱心という存在にとってもそうだっただろう。


 だが、今度は壱心が待ち望む形で横浜の港に船が訪れる。



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