火種と火蓋

「……まぁ、いいか」


 横浜で済ませる予定だったものがこちらにやってきているとの報告を受けて壱心は雪解けが終わった本州最北端の港でそう呟いた。


 温かな日差しと冷たい風が吹き荒び、主導権争いが繰り広げられている港。壱心はそこで大量の兵たちが船に乗り込み、出兵準備を進めているところを見ていた。


 直に、本州を離れて蝦夷の地で賊軍との最終決戦が行われんとしている。


(さて、一応史実通りに勝ちには近付いているが……どうしようか。ちょっと面倒くさい動きが福岡で起きてるみたいだし、勝ちを急ぐべきか……重要な場面以外ではあまり妙に歴史を動かしたくはないのだが……)


 考え込む壱心。その頭には負けの二文字はない。彼が福岡藩より連れて来た歴戦の猛者たち、そして新政府軍が擁する兵の数と新型の武器たちがある限りこの箱館戦争ではどう転んでもまず負けることはないと踏んでいるからだ。

 だが、急いては事を仕損じるという可能性がある中で私事にかまけて危ない橋を渡るのは躊躇われた。歴史の介入による皺寄せがどこに行くかという大きな理由がある。それを前提とした上で彼は悩んでいた。そんな急ぐ理由には事欠かない状況だが、それらを踏まえた上で彼は慎重に事を運ぶことを選んでいる……のはいいのだが、その選択でよかったのかどうか、今になっても悩んでいたのだ。


(ちょっと色々とタイミングが悪そうなのがきな臭い……目の前の事から片付けるべきなのはわかるが……後ろを歪にし過ぎたな……)


 少々見通しの悪さを悔いる壱心。仮にも戦前だというのに彼に余計な不安を抱かせているのは新政府内での藩閥争いで福岡藩を蹴落とすために薩摩と長州の一部が動いているという情報だった。


 この動きは予測可能だが回避は不可能だったと言っていい。維新を成し遂げた各雄藩が現在の福岡藩一強の状況に満足するわけがないのだ。

 現在の藩閥において長州藩と薩摩藩が両雄として並び立っているが、長州征討の一件で福岡藩は長州藩に優位に立ってしまっている。また、薩長同盟の際に動いたのも福岡であり、長州と薩摩で手を結んだ状況をまるで子どもを見守る親の様に上から見ているように感じられ、薩摩藩からすれば面白い状況ではないのだ。長州藩とて維新を成し遂げた自負があるのにいつまでも目の上に瘤があっては堪ったものではない。


 そこで福岡藩を何とか蹴落とそうと後ろ暗い考えを抱いた両藩。使えそうな問題を探していると興味深い物があった。それが福岡藩の財政問題だ。

 幕末における福岡藩の財政は決して良くなかった。異国船に対応するために旧幕府より任されていた長崎警備の費用を負担していたこと。財政再建のために行われた御救仕組というインフレ政策の失敗。

 そしてそれらを打開するためには新政権で力を握り、有耶無耶にするしかないとして強力な発言権獲得のために戦争で活躍しようと軍事増強費に金を費やし過ぎたことが彼らの足枷となっていたのだ。


 また、過ぎた問題は仕方がないかもしれないが、藩首脳部が抱いていた新政府への希望が通らないかもしれないことが彼らを更に追い詰める要因となっている。

 具体的には当時、戊辰戦争における軍事費は新政府から恩賞が出ることになっていた。倒幕を果たした後に幕府が抑えていた金や銀の鉱山を解放することで恩賞金に充てるという計画だ。それがあるからこそ後ろを気にせずに戦っていたのだが、福岡藩の首脳部にはそれがどうも上手く行きそうにないように思えた。戦乱によりインフラが荒廃し、歳入が少なかったのが原因だ。


 史実では一応、新政府の明治初期における財政問題は急場しのぎとして発行された太政官札によって収まる。だが、不安がる藩の首脳部たちに未来から見た限りでは大丈夫です等と言えるはずもない。代わりに壱心が行った金銀の埋蔵量に余裕があるため、太政官札の価値も下がる事はないだろうという説明では彼らは納得しなかった。

 彼らが納得しなかった理由は既に福岡藩では先の御救仕組で実態経済以上の紙幣乱発……兌換紙幣の大量発行による経済活性化政策に失敗していたのだ。心情として壱心の説明をよくよく聞いていられる程の余裕がない。

 彼らのトラウマとなっている御救仕組は福岡藩が先代の黒田斉清の治世で現藩主の黒田長溥へ円満な政権交代を行うべく行ったもの。簡単に言うのであれば銀兌換の藩札を大量に発行して生活が困窮している債務者に借金を返済させ、生活にゆとりを生むことで消費を促して経済を活性化させ、実体経済も同時に回復させることで税収を増やし、藩札も実態と合わせるというもの。


 福岡藩首脳部からすれば現在の太政官札の発行も似たようなものだ。


 そして、その政策の結果だが、実体経済が拡大する前に藩札の後盾となる銀が実態に伴っていないことを理解した市場が藩札の価値を暴落させ、借金を藩札で返された者たちの大損。そのしわ寄せは次の債務者に降りかかることになり、生活は切り詰められ、元の木阿弥だった。


 この前例を身を以て実感した福岡藩は新政府の紙幣乱発を快く思っていない。だが、同時に新政府の歳入が芳しくないこと。更に内戦で多くの場所に金をばらまかなければならないことも重々承知しているため、中央ではそれで承知すると苦渋の決断を下したのだ。

 決断を下したとは聞こえがいいが、まだ敵が残っているこの状況で目の前の危機を無視して戦後の財政問題についてまで考えるのは得策ではないとして無理矢理納得した形だ。新政府の通常歳入が歳入全体で見ると酷いもので歳入総計の一割程度であると知っていれば認めなければ潰れるということも自明だった。

 事を真正面から受け止めると戦後どころか目の前の敵と戦うための金についても考えられない。藩首脳部からすれば目をつぶるというよりは現実逃避に近いと言っても過言ではなかった。


 こんな内部状態に加えて、外交でもこの国は借金を抱えている。内乱状態にあるこの国は国際的な信用性が低く、旧幕府から引き継いだ対外債務の借入金の利率が15~18%という法外な物でも飲まざるを得なかった。自国通貨が通用しないのも仕方のないことで、金や銀を重量で持っていかれて大量流出が留まることを知らず、対外関係においても赤字はどんどん増えていく。


 重ねて言うが、政府がこの様で、財政を何とかするにも紙幣発行による信用創造しか出来ないのはその中に入っている福岡藩も嫌というほど知っている。どれだけ嫌で何度も他の案を考えたが何も思いつかなかった以上、文句は言えなかった。




 このような新政府の大問題。だが、壱心が気にする大問題はここだけではない。これだけであれば史実的に何とかなるだろうで済ませて船に乗って最終決戦に臨むのにこれほどまでに後ろ髪を引かれる思いはしなかったであろう。

 彼が船に乗るのを躊躇っているのは万一の際に自藩だけでも生き残ろうと福岡藩が画策した悪手。それが壱心の本当の気がかりで、本州に残るべきかと考える事態だった。


 その内容が、史実で言う太政官札贋造事件。


(新政府が発行した紙幣に乗じて太政官札が福岡で勝手に造られてる……それも藩ぐるみで偽造してるんだよな……史実通りに二分金や一朱金、二分銀も含めた偽造を、乙丑の変の生き残りを加えた史実以上の人数……そして、史実以上の規模で)


 釜惣からの伝達が脳内で反芻される壱心。情報では造られているどころか、既に藩内にて小規模ながら偽札が流通しているとして現物が送られていた。お手を煩わせて申し訳ないと礼金に本物が多めに入っていたのはご愛敬としておく。

 そちらについては後日に感謝の旨を伝えることにして今は偽札問題と藩の財政について考える。


(薩摩もやっていることと言えばそうだが……他がやっているからという理由で許される筈もない。そもそも、これほどまでの規模となった背景には俺に心当たりがある……)


 この問題に関しては壱心にも大きな責任があると自覚している。彼は藩内で相談された時に打つことが出来る手を敢えて打たなかったのだ。藩があまりにも強過ぎると自身の動きが拘束されてしまうこと、そして歴史の予測が困難になることを理由として。


 その結果が、史実以上の、藩ぐるみでの大規模不正。新政府が潰れた時に自藩は大丈夫なようにと藩主以下、新政府中枢に入り込んだ重要人物も幾名か加担しているという事実。


(……これは、福岡藩が終わる……いや、確かに史実でも廃藩置県前に福岡藩が終わった原因なんだが……)


 乙丑の変を乗り越え、有能な人材を残せたのだからこの問題についてもある程度の犠牲で済むはず。まして、薩摩藩もやっていたこと。史実の処罰は福岡藩が佐幕派だったことが原因で見せしめとして行われたことであるためそこまで厳しい処罰はないだろう……

 そう思っていた見通しの甘さを嘆く壱心。彼の手にある贋造への加担者リストには彼が散々世話になった男……加藤司書の名も入っていた。


(……史実通りなら……この贋金は今から落とす北海道の開拓で使われることになる。そして、一度の警告の後に見せしめの標的として福岡藩は終わる)


 後に首相となる松方正義が告発して明るみに出ることになるこの事件。他の藩でも行われているのは目に見えて分かっているが、それを許さないという名目で雄藩である福岡藩を処罰すれば周囲への強い牽制にもなる。福岡藩の反発は必至だが、罪を犯した以上は聞き入れられないだろう。出来て精々道連れ程度。


(流石に今から動くには無理がある。俺にも予定があるしな……まぁ流石に権力の内部に入っているんだからそこまで酷いことにはならないだろう。仮に不味いことになったら、相応の処置を取るまでだ……)


 悩み事は後を尽きないが、壱心の視線の先で兵たちが船に乗り込んだのを見届けたためそこで中断する。ここで死んでは悩むことも何もないからだ。


 目指すは北の大地。旧幕府軍……脱走軍が先の戦いに敗れて逃げた方向と真逆の日本海側。脱走軍が展開して警戒している江差から北へ三里ほど進んだ場所にある乙部村だ。


(史実通りにいけば、普通に上陸できるな同時に箱館にいる外国領事に戦闘開始の通知を送って……)


 故郷に燻ぶる火種には一時的に目をつぶり、代わりに戦火の炎を燃やすべく壱心は丈夫たちと共に船に乗り込んだ。



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