明治初期の動揺

戊辰戦争 最終戦開幕

「おぉ、香月閣下! お待ちしておりましたぞ! ささ、こちらへどうぞ」

「あぁ、うん」


 龍馬との話し合いを終えた1868年の冬。壱心は東京で様々な仕事を遂行して自身に課していたノルマを達成しながら慌ただしい日々を過ごしていた。

 だが、世の中はそう上手くいくことばかりではなく、彼は現在本州最北部で雪の中を歩いている。


 先に言っておくが左遷されたという訳ではない。寧ろ彼は出世して江戸が東京になる頃には壱心は明治天皇より従四位勲二等を与えられており、敬称で閣下と呼ばれる勅任官になっている。

 加えて勅任官の海軍二等将とされてはいるが福岡藩の誰かが中途半端に介入した結果、史実にない役職についていた。任官され、この地に向け出発した時点の壱心の役職は海軍少将。従四位ながら彼の持つ地位や権限は高いものだ。

 壱心としてはそんな地位を得るつもりはなかった。彼は普通に下野して親友である安永新兵衛や弟の次郎長、そして維新の間に知り合った知己に口を出し、お雇い外国人の翻訳を少し恣意的に改造することで国策を誘導するつもりだったのだ。

 当然、その他にも設立予定の通信社やその他の民間企業を通して裏で蠢動するつもりはあり、暗躍する気は満々だった。だが、表部隊のこんな地位に就く予定が全くなかったのだ。

 だが、そんな私事都合が許される筈もなく福岡藩のお偉方だけではなく方々から呼び出されて宥めすかされたり普通に激怒されたり圧力をかけられた結果、任官することになった。本人は非常に嫌そうだが。


(本当に面倒だな……本当なら今頃は石高を上げるために品種改良に勤しみつつ、人材発掘に勤しんでいた予定が……せっかく小栗さんを助けて新政府側と敵対しないように持ち込んだんだからそっちで頑張ってくれよ……)


 壱心は戊辰戦争の最中で助けた幕臣の魁傑、小栗忠順のことを思い出して内心で気怠げにする。

 旧幕府の旗本で外国奉行や勘定奉行、陸軍奉行に軍艦奉行、果ては海軍奉行までを務め、横須賀の製鉄所(後の造船所)を作り上げた小栗忠順。史実においても彼の作戦を幕府が実行していれば新政府軍は敗北していただろうと他でもない新政府軍の重鎮たる大村益次郎に言わしめた人物だ。

 史実で自分が居なくとも勝てた戦争。それに彼の英傑が加わり、新政府軍で活躍するために疑惑を払拭すべく活動してくれれば自分はこんなところに来なくとも。

 そう考えつつ壱心は小栗の知行地である権田村にて新政府軍に処刑されそうになっていた時を思い出す。


(確かに、あまり恩着せがましさを感じさせないように救っておいたが……後々に新政府内で揉める可能性があるのに問答無用で助けたんだから多少は何か感じて俺の代わりにやってくれてもよかったと思うんだよなぁ……まぁ、身分が違うと言われればそうかもしれないが……)


 過ぎたことは仕方ないと思っていても溜息が出る。


(やっぱり生まれついての三河武士を口説くのは無理かな……ただ、俺の代役云々は置いといて、あれほどの人を在野に放っておくのは色んな意味であまりよくないんだが……助けておいてなんだが)


 溜息と共に吐き出す憂鬱感。憂鬱な考えは友達を連れて戻って来たらしい。遠く離れた北の地で壱心は小栗には護衛の名目、そして新政府側には監視の名目で軟禁状態にした彼のことを思い出し、更に溜息をつく。

 旧幕府に忠誠を誓い「二君に仕えず」を貫く彼を翻意させるのは命の恩人である壱心が弁舌を尽くしても不可能だった。公的組織ではなく壱心個人との繋がりでの協力は取りつけることは出来たため、幾人か新政府の要人と繋がりを持たせたが、それが精いっぱいだった。


 ただ、本人の知らぬことだがまだ若い壱心を海軍でも参謀クラスにに推薦したのはその小栗だったりする。史実よりはある程度マシとはいえ深刻な人材不足に悩み壱心が生んだ伝手から彼を口説きに来た新政府からの使者に逆に口添えしたのだ。壱心が小栗を説得しようと行った語りが仇となり、自分が忠節に尽くすだけの余力がこの国にはあると判断されてしまった結果だ。

 ついでに不本意な形で壱心の手によって表舞台から降板させられ、最近壱心らの手によって再び舞台に戻り咲き、現在は欧米を回っている龍馬から仕返しのように勝海舟ら新政府海軍幹部へ推薦されたという事実もあったりする。


 そんなことなど露知らず、戦争など自分抜きの史実でも勝ったんだし別の出来る奴がやれと考えている壱心。

 彼が内戦を放り投げて本当にやりたいことは農業改革だ。富国強兵の内、この国の上層部が不得手なのは基礎国力を上げること。壱心は富国強兵をバランスよく実現するためにこの国の基幹産業である農業の生産性向上を目論んでいた。

 

 この時代から下った先の時代での研究で分かることだが社会の発展は農耕社会から軽工業、重工業へと進歩していく。江戸時代は人口比、そして士農工商という言葉から分かる通り農業を中心としていた社会だった。

 このような農業社会から経済を発展させる定石としては生産性を上げて労働力を余らせ、比較的安価な設備投資で稼ぐことが出来る軽工業に農業の余剰労働力を回して資本を蓄積。そして蓄積した資本を設備などの投資に回すことで重工業へと発展させるのが常道になる。


 つまり、簡単な言い方をするのであれば農民たちに従来の仕事を楽にさせて時間的に、そして精神的にゆとりを持たせることで別の仕事に就いてもらう。別の仕事を営む会社が儲ける。会社の利潤を設備投資に回して更に儲け、社会に富を蓄積。社会全体の発展につながるということだ。


 その第一段階、農民たちに従来の仕事を楽にさせるために壱心は確実に成果が上がる方法を大きく二つ選択している。その内の一つが、釜惣と共同で行っている稲の品種改良だ。

 当時の稲の選抜方法は育てた苗の内、一番よく育ったものから種を取ってそれを次世代に使うというもの。良い品種を掛け合わせて特性を伸ばすやり方という物は一般的ではなかった。

 それは当然の話だ。品種改良という技法の核となる遺伝に関する情報は当時まだ親世代の特徴が子世代に引き継がれるということを体験的に知られていた程度。明確な法則として明かされたのは壱心がこの本州の果てに呼び出された1868年の二年前である1866年に世界で初めてメンデルが明かしたことなのだ。

 しかもそのメンデルの法則……当時は要素と称された遺伝についての法則の内、優性の法則、分離の法則、独立の法則という一連の法則は、当時の研究でも先進的で注目を集めず、後年になって別の科学者たちが再発見することでようやく再評価されることになったレベルだ。これに基づくイネの人工的な品種改良が日本に導入されるようになるのが明治37年、1904年になってからのことである。

 

 だが、壱心はこの時点で既に遺伝の法則が事実であるのを知っている。そして、品種改良が確実に成果を上げられる物であるということも。同時に、土地や気候に合わせるためには確実に時間がかかる物であるということも知っていたので早期に着手した。しかし、その成果が目に見えて上がることは中々ない。早いところ国策に売り投げたいものだった。


(設備投資で大枚はたいたが、まだ収入がな……尤も、他の研究成果で何とか瀬戸に……というか、この部門は利三か。アレに続行を理解させてはいるが……あいつも色々と上手くなったから俺が見ていないと何かしら誤魔化される可能性があるんだよなぁ困ったもんだ……)


 目に見えた成果をパトロンにせっつかれている問題が脳裏を過る。だが、そんなこと、出来ればやっている。無理なものは無理なため、別件で誤魔化していた。

 大枚はたいて作り出した研究設備だが、一先ずは研究所の別棟で石炭酸フェノールの製造を成功させ、戊辰戦争で元を取り返す以上の大儲けしている現状があるため、見切りは付けられないだろう。戦時下にあるこの国で限られた最先端技術の消毒液は利益を生み出し続けている。未来からすれば損傷部における石炭酸の使用は中毒の恐れがあるため禁忌とされているが、それ以外の物を作れるほどこの時代の理解は進んでいない。しばらくはこのまま進むだろう。そして、この先にも当てはあるためまだ問題ない。


 それはともかくとして。壱心が現在力を入れている農業改革は時間がかかる品種改良だけではない。


 壱心が行っているもう一つの農業生産性向上のための施策。それは同じく釜惣と共同で行っている農具改良だ。その内、現段階で実用出来るというのが八反取り、田打車などの水田除草機だ。

 この農具が活躍するのは水田における除草作業。これは稲作管理において非常に重要である作業だが、同時に非常に時間が必要な重労働だった。記録では手作業で除草作業を行うと10a当たり9.5時間必要だったともいわれるほどだ。


 だが、八反取りを用いた場合には同じ作業が4時間で済むという。


 このように非常に効率的な作業を行うことが出来るため、目に見えて生産性が向上したと釜惣パトロンにも好評な施策だ。現在はその有用性をアピールするために釜惣と農具の量産体制を整え、釜惣が所有する質流れの農地をモデル地区として放出している。

 その後の流れとしては、金貸しの業者にモデルの成功を見せつけた上で規模の経済を活かすことが出来る程度で儲けが出る値で売りつけて拡散。そして農民たちの時間にゆとりを持たせることで働き手を確保し、第一段階の目標を達成。

 後は、農具を売りつけて蓄積した資本に加えて釜惣の資金を交えて現在も積極的に買い付けている生糸を器械的生産へとスライドし、重工業へと発展していくのを日を楽しみにしていたのだが……


 現実では寒空の下で海風に吹かれている。


(……面倒臭いなぁ本当に……戦うのは別にいいけど、つーか何で俺が今の時点でここに来なければいけないんだ……? どうせ戦いは雪解けを待って来年になるってのに……)


 壱心は内心でボヤき続ける。彼が海軍として史実の1869年の3月よりも前にこの場にやって来たのは壱心の介入によって1868年の冬を待たずに死んでしまっていたはずの男の存在があった。


 そう、坂本龍馬だ。要するに蝦夷の地に渡りたいと熱望していた彼が早いところ終戦させようとアメリカの局外中立(国内の戦争に影響を及ぼす行為を行わない)の撤廃を聞くや否や旧幕府が買い付けていた最新鋭の軍艦、甲鉄をさっさと回収してしまったのだ。

 これにより、旧幕軍は大慌て。対する新政府軍は色めき立って好戦的になってしまった。そのとばっちりを喰らったのが壱心となる。


(あー怠い……何が怠いって、史実なら悪天候で出てくるのに失敗した輩どもが雁首並べて出てきて戦うことになりそうだってことだ……しかも奴さんら宇都宮の戦いで俺の事豪い恨んでるだろうしなぁ……張り切ってそうだ……)


 壱心は案内人が前を向いているのを確認した上で嫌そうな顔をした。宇都宮の戦いで西郷家に恩を売るために大山巌を助けたが、言い換えれば敵である大鳥圭介、土方歳三を叩きのめしたということでもある。

 史実で壱心が現在いる宮古湾を襲撃して軍艦を拿捕しようとしたのは箱館政権の海軍奉行・荒井郁之助を指揮官とし、陸軍奉行並である土方歳三が率いる勇兵だ。

 土方は言うもがな壱心と宇都宮で実際に戦った相手。そして荒井は大鳥と共に横浜でフランス軍式を学んだ存在だ。友人の敵討ちにやる気は十分だろう。


(……尤も、普通にやったら負けることはないけどな。相手の奇襲もわかっていれば奇襲にならない……)


 油断は許されないと思いながらも帰りたさがそれを打ち消して溜息をつきながら案内される。その先は既に派遣されていた海軍首脳部が待受けており壱心を前にして敬礼を取った。


「遠路はるばるお疲れ様でした。香月閣下」

「お疲れ様です」


 辞儀合いを開始しながらどうでもいい時間を過ごす壱心。この場にいるのは艦長以上の海軍副参謀、並びに参謀クラスの男たちだ。


(はぁ、せめて陸軍だったら下士官がいっぱいいるから手を抜いてもいいのに……海軍なら船の数が少ないから目立つ……)


 口と表情では綺麗なことを言いながら内心の気怠さを隠しもしない壱心。やりたいこともやるべきことも大量にある。この場の戦いは別に壱心が居なくとも新政府軍の圧勝で済むのに壱心が参加する意味を見出せなかった。


 強いて言うのであればこれくらいか。頃合いを見て意見を求められた壱心は口を出しておく。


「あー、現状にお変りがないのはいいことですが……敵は多分ここ。宮古湾を強襲してきます。そうでなければ勝ち目がありませんし」

「フフフ、でしたら返り討ちですな。尤も、もはや死に体の賊軍がただでさえ数の不利を持つというのに兵を分けてくるとは思いませんが……」


 壱心の言葉を笑いながら否定したのは佐賀藩で現在は海軍副参謀に任ぜられている石井富之助だ。壱心は史実通り佐賀藩主体となっている青森口総督府の賊軍軽視を目の当たりにしながら情報展開を行う。


「その賊軍ですが、開陽が先月の時点で沈没している情報は松前藩より届けられていますよね?」

「ん? あぁ……だからこそ、下手に戦力を小出しにしてこちらへ攻めてくることは……」

「逆です。彼らはまだ諦めていないんですから開陽の穴を埋めようとこちらの甲鉄を拿捕しに来ますよ」


 少し考える素振りを見せる石井。周囲の目が難しいものになり、腕組みするものや瞠目する者も出て来る。


(……俺らが既に功績を上げている中で、自分たちにも功績が欲しいのに口出しされても。という表情だな……何より、他の場所で厳しいとされる戦いでも勝利を重ねている新政府軍より旧幕府軍が劣っているという考えを持っている状態で他にはできたのに自分たちに出来ないと思われているのが不満という声が出てるな……)


 理屈に感情のバイアスがかかっていると思いながら壱心は誰にも聞こえぬように小さな溜息をつく。そしてそれに敏感に反応した人がいるのを受けて殊更明るく振舞った。


「まぁ、別の言い方をするのであれば……時代の流れをつかめない愚者たちは戦術もよくわからないままに欲しい物を求めて幼子のように突撃してくるやもしれないということです。大人である我々は警戒しておこうという話で済みますね」


 真面目な空気から壱心が表情を緩めて言った発言。急な気温差に周囲の毒気も抜かれてしまった。一度緩んだ空気は全体に寛容な雰囲気を波及させて受け入れがたいとされていた意見を承認させ……宮古湾海戦の準備が整うことになる。


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