明治への足音
甲州勝沼の戦いを制し、江戸を目指した壱心たち。この物語にも明治の足音が近づいている。
慶応4年3月14日―――五箇条の御誓文。明治天皇が天地神明に誓約する形で全国の公卿や大名、また都市部の国民に示した明治政府の基本指針。江戸城での徳川家との戦いを予定する前日に打ち出した宣言。
・広く会議を興し、万機公論に決すべし
全国で隔たりなく全てのことを公開された議論で皆の意に沿うように決めること
・上下心を一にして盛んに経綸を行うべし
上下の差なく国民全体が協力して経済を強くし、国家政策も強化していくこと
・官武一途庶民に至る迄各其志を遂げ人心をして倦まざらしめん事を要す
朝廷、武家が協力して天下の善政を布き民を充足させ国家を隆盛に導くこと
・旧来の
昔から続く悪習を一掃して自然の道理に従うこと
・智識を世界に求め大いに皇基を振起すべし
開国し、世界に見聞を広めて天皇陛下の下で国家を強くすること
史実通り、由利公正と福岡孝弟が起草し、木戸孝允が修正。加えて福岡藩が内部向けに解釈を公開すると同時に旧幕府との違いを打ち出した。これによって新政府は開国和親に転換し、世論を尊重すると公卿や大名に対して通知を出す。
福岡藩が積極的に介入しなかったのは彼らが武士として戦場に拘ったことの他、列強との交渉をするために必要な知識を得るために地位を保障された幹部クラスの藩士たちが現在進行形で海外へ渡っていることが挙げられる。
因みに壱心の弟である次郎長も現在は海外渡航中だ。当初はフランス軍式を学びにフランスへ向かう予定だった次郎長だが、壱心の強い勧めと普墺戦争の結果がもたらした情勢によってプロイセンに渡りプロシア式軍制を学んでいる。欧州情勢が史実通りに、そして次郎長たちの行動が予定通りにいけば彼が日本に戻る頃には普仏戦争が起きてプロイセン改めドイツ帝国が大勝し、彼が学んだことが優先されるようになり大いに日本に活かされるだろう。
それはさておき、現在の1868年、慶応4年に戻る。
開国和親に転じた新政府が統治する日本国だが世間や諸藩には簡単に受け入れられないという世論の流れを汲み取り、その点に関しては政府主導で行動を起こすということを現組織内で周知し意思統一を行い、新政府がこれからの日本を担っていくということを宣言。同時に今回の誓文が今後の国体を定めていくことになる。
同年3月15日―――五榜の掲示。
こちらは江戸城総攻撃予定日であった3月15日に全国のすべての国民を対象に各地の高札上で掲示され、徹底周知されたもの。明治6年に他ならぬ新政府によって高札制度が廃止されることになり事実上廃止されるが、今現在はこれにより新政府の権威と支配圏が示されることになる。
内容としては江戸時代の政策を継承することに加えて万国の法を守ることなどが挙げられているが、重要なのは佐幕派や反政府の地域を炙り出して潰すこと、そして新政府の権威付けだ。
世間に広く、幕府は終焉に向かい天皇の下で新政府が日本を治めるということが周知されていく。
そして、4月11日。西暦では1868年5月3日。
江戸城が、無血開城した。
これによって江戸幕府の象徴であった物、江戸城は新政府軍のものとなる。同じく象徴たる人、将軍慶喜は水戸に謹慎。800万石あった徳川宗家は100万石にまで減封されることになる。これは史実より30万石多い沙汰な上、結論が出るのがかなり早かった。
その内実には福岡藩残留組の存在がある。旧旗本家や抗戦の構えを取る者たちの抑制策、また中立の立場にある者たちが抗戦派に支援をしないようにするためにこの案が取られたのだ。彼らが問題を起こした場合には徳川宗家が責任の一部を取らなければならないという出所不明ながら多数の情報源を持つ噂を流すことで旗本、佐幕派に対する抑制策として実行された。
当然のことながら、佐幕派ではこの処置を不満とする勢力が多数だった。特に大きなものとしては海軍副総裁の榎本武揚が史実通りに徳川家と大総督府との交渉で決められていた軍艦引き渡しを拒否して品川沖から出港し館山沖にまで逃れたものがある。
また、対立勢力、そして潜在的な敵勢力として江戸周辺で挙兵する抗戦派や会津などの徹底抗戦を叫ぶ藩やまだ日和見を続けて中立という立場を取ろうとする藩も出てくることになる。
これらの引責によって結局、徳川宗家は史実通りの静岡70万石の藩主になるが諸藩に対しての交渉材料となり戊辰戦争による犠牲者が史実よりも多少少なくなる結果となった。
犠牲者が少なくなる、という言葉から分かる通り戦争自体がなくなるということではなく、規模はともかくとして歴史の揺り戻しのように史実通りの戦争がこの後も続くことになる。
しかし、それでも時代の潮目はこの時点で決定的に変わった。武家の棟梁たる将軍が、自ら降伏したのだ。頭のいない旧幕軍に大義はない。散発的な挙兵は新政府軍によって各個撃破されていく。
壱心も福岡藩士、また新政府軍としてその戦いに幾つか参加した。例えば、第二次宇都宮攻城戦。ほぼ史実通り、旧新選組副長土方歳三と旧幕府陸軍歩兵奉行大鳥圭介によって奪われた宇都宮城の奪還戦。
ここで壱心が歴史介入して実行した活躍は西郷隆盛の従兄弟である大山の窮地を救ったことだ。西ノ丸まで攻め進んだ大山巌を迎撃強襲し、更に後方撹乱という手に出た大鳥の奮戦を即時看破して打ち破り、大山に……引いては西郷家に恩を売ることに成功した。
例えば、上野戦争。甲州勝沼の戦いより共闘していた伊地知正治や河田佐久間、また板垣退助らに惜しまれながらも北上せず、やり残したことがあるとして壱心は群馬に方向転換し、やり残したことを終えると親友の安川と共に大村益次郎の指揮下に入って史実以上に苛烈な攻撃で旧幕軍を叩きのめした。
そして群馬などでやり残したこと、やっておかなければならないことを終えた壱心はもう帰郷して次のフェイズに移りたいなと思いながら
そんな戊辰戦争の流れはともかくとして、日本国はこの年1868年に急激に変わり始めた。
閏4月21日には政体書が布告され、アメリカを参考とした立法・行政・司法の三権分立制である太政官制が布かれることになる。こちらは壱心の必死の説得で残留組の幹部、喜多岡を筆頭として藩士たちが動き、黒田が動くことで福岡藩として歴史に大幅に介入した。内容は行政における管轄省庁の細分化だ。
本来、この時点の明治政府が考えた行政は行政・神祇・会計・軍務・外国の五官によって行われるものだが、福岡藩の働きによって少し歴史を先取りした神祇官を太政官とは分ける二官制に変更し、行政を民部・大蔵・工部・兵部・刑部・宮内・外務の7つに分割することになる。
内情は複雑怪奇で意思統一もままならない状態だがそれでも取り敢えず戦争が終わるまではという形でここに落ち着かせたのだ。
これは壱心の工作よりも史実よりもこの時点で新政府についた者が多いことが大きな原因となる。福岡藩という大藩が混ざっていることから日和見せずに新政府側に付いた者が多く、役職を史実より増やさなければならなかったのだ。この歴史介入に関してはそもそも手が足りていなかったことに加えて甘い汁を吸いたい者は後を絶たないため特に強硬な反対は出なかった。
そんな慌ただしく日本を再編し、新体制を作っていく中。
7月17日。西暦1868年9月3日。
江戸が東京に改称され、武士の時代である江戸時代は名目上、その名を冠す江戸の町が変わると共に完全に終焉することになり―――
9月8日。西暦1868年10月23日。
改元により、新たな時代―――新政府主導の大日本帝国によって明治時代が幕を開ける。
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