第二次長州征討

 慶応2年の6月。グレゴリオ暦に直すと1866年7月のこと、幕府が長州征討に乗り出し実際に衝突した。


 幕軍とその麾下にある諸藩の戦闘は6月7日より幕府艦隊真木清人の周防大島への砲撃から始まり、13日には芸州口・小瀬川口、16日には石州口、17日には小倉口でそれぞれ戦闘が開始されることになる。


 さて、別名 四境戦争とも呼ばれるこの戦いにおける大抵の成り行きについては史実通りに恙なく行われた。


 まず、戦端が開かれた場所。長州藩の南側、周防大島については砲撃が行われた翌日に幕軍麾下、伊予松山藩軍が大島へ上陸して占拠。しばらく幕艦による砲撃を行って反抗勢力を鎮圧した後に幕軍も上陸し、長州に対して水軍では優位に立つ。


 長州としては当初から周防大島については放棄する予定だったが、松山藩の占領方法がかなり手荒なものであったがために義憤に駆られ周防大島に攻め入り奪取する。元々は幕軍の方が戦力的にも上回っていたのだが緒戦の勝利に浮かれ、警戒を怠っていたがためにこのような無様を晒してしまった。


 続いて東。芸州口では、長州軍として長州藩および岩国藩。幕軍として幕府歩兵隊と紀州、彦根、高田(新潟)、与板(新潟)らの軍勢の間で戦闘が行われた。こちらでは彦根藩と高田藩が緒戦の段階で長州藩の集中砲火に遭い呆気なく壊滅したが、幕府歩兵隊と紀州藩兵が両藩に代わって戦闘に入ると、幕府・紀州藩側が兵力の優位を背景に押し気味になるも長州藩の壁を突破することは出来ずに膠着状況に陥り、ここでは停戦が結ばれることになる。


 そして長州藩の北側、石州口では長州軍の近代化を推し進めた傑物である大村益次郎が指揮し、敵兵を食い止めるどころか打ち破り、中立的立場を取った津和野藩を通過して病気で伏せていた一橋慶喜の実弟である松平武聰が藩主を務める浜田藩へまで侵攻し、浜田城を陥落させる。勢いに乗る長州軍は天領だった石見銀山まで攻め入ってそれを接収した。


 長州藩の西の入り口、小倉口。ここでは幕軍総督・小笠原長行が指揮する九州諸藩と高杉晋作・山縣有朋ら率いる長州藩との戦闘が関門海峡を挟んで数度行われた。こちらの戦闘においても幕軍は数の上では勝るが士気も練度も低い烏合の衆であり、数の上でも軍艦の性能でも優勢な海軍力を有しながら長州に攻め入ることは出来なかった。

 そうこうしている間に長州勢は九州の田野浦へ上陸を果たし、7月2日には大里にも上陸を許して幕軍は戦闘の主導権を奪われた。それでも諸藩軍・幕府歩兵隊とも誰かが征討をやるだろうと積極的に戦うことをしなかった。福岡藩においてもそれは例外ではなく、保守系、佐幕派の家老である浦上が裏で手を回して藩兵の保全を命じ、史実と同じように長州に領地を奪われ、実害を受けている小倉藩が単独抗戦を強いられる状態のままだった。

 この後も不甲斐ない幕軍に代わって九州の藩兵、特に肥後などが活躍を見せても幕軍の動きは芳しいものではなく、そもそも幕軍に戦う意思があるのかどうかというレベルで疑問視されるようになり、九州諸藩は総督への不信を強めて7月末には一斉に撤兵・帰国してしまう。

 また、小笠原総督自身も7月20日の将軍家茂の薨去を理由に戦線を離脱し、孤立した小倉藩は小倉城に火を放って退却した。その後、長州藩は更に九州に攻め入り小倉藩は家老・島村志津摩らの指導により軍を再編して粘り強く長州藩への抵抗を続けて戦闘は長期化するが、これは小倉と長州の戦いであって事実上幕府軍と長州軍の戦いは幕軍の全面敗北に終わる。


 そして7月20日に将軍が逝去したことを理由に敗北した事実をなかったことにするかのように朝廷に働きかけて休戦の勅命を出してもらうことで戦争は終了したかに思えた。

 しかしながら小倉方面における長州藩の侵略は止まらなかった。これも史実通りで明らかな違約に対しても幕府は停戦の履行を迫る力はなく小倉藩のみで長州と戦い、敗北を重ねていくことになる。


 と、ここまでは史実通りの流れだ。だがここからは史実とは異なる流れになる。


 福岡藩が出て来たのだ。隣藩である小倉の危機ということで浦上の指示で撤収していた近代化軍を藩主の許可を得て加藤率いる勤王党が出兵。そして長州藩に奪取された拠点を奪い返し、本州と九州の関門海峡であり、九州側の土地である門司まで攻め返した。幕府はこの働きに歓喜して福岡藩の総督に任じられていた加藤司書とその副官として働いていた安永新兵衛に褒美として千両を送り、加藤司書に対しては将軍から絹織物も加えて送られた。


 ただ、ここで小倉藩から幕府に対して嘆願書が送られてくることになる。曰く、福岡藩が長州藩の反撃に対する備えと称して門司までの拠点を占拠し続けているという話だ。


 幕府はこの扱いに非常に困った。長州藩を止める力を持たない幕府として、長州藩を止めた福岡藩に抗議の連絡を送って彼らが得たものをタダで奪うとなると福岡藩から何を言われるか分かったものではない上、福岡藩が撤兵した場合、長州が再侵略する可能性もある。

 また、将軍が逝去して次期将軍として徳川慶喜を招こうとしているのだが、彼がまだその辞令を拒んでおり内部でも混乱しているのだ。


 結果、幕府は口頭注意に留まりそれ以降は沈黙。小倉藩も長州藩にすら敗れたのにそれに勝った福岡藩も敵に回すようなことをしてしまえば両面からの攻撃を受ける羽目になってしまうことを恐れて沈黙。その期を見計って福岡藩が主導で長州藩と小倉藩の和議が結ばれた。無論、門司は福岡藩が実効支配したままで。


 幕府はそれを快く思わず福岡藩に対して先の注意より強い撤兵の命令を下すが、長州征討の長期化に備えて各藩が兵糧米を備蓄した事によって米価が暴騰し、全国各地で一揆や打ち壊しが起こったためそちらの対処に奔走することになり具体的な策は最後まで言うことが出来なかった。

 寧ろ、この占領の事例を認めることを条件に福岡藩を完全にこちら側に引き込もうという話まで上がっていたことから幕府の権威は失墜していたことが分かる。


 尚、どこで逸失したのかは不明だが長州藩と福岡藩の戦いの負傷者数は数十名に上っているが戦死者数は記録されていない。これは長州にも福岡にも残されておらず、特に福岡藩にしてみれば幕府に対しての戦功をアピールするために必要なものだったはずだが一切残されていなかった。




 こうして四境戦争は終結した。全国に対する影響としては幕府の長州・薩摩・福岡に対する干渉能力がなくなったこと。また幕軍の戦力は画餅であること。各藩に対しての強制力すら弱まっていることが露呈し、全国に米騒動を巻き起こした。

 そして、長州藩においては薩長同盟が真なるモノとして動いていること。また、自軍の力は幕府にも通用し、これからの時代を動かすに値するものだと知ることが出来た。

 薩摩藩においては幕府の弱さが露呈し、時代を動かすのは雄藩であることの再確認となった。


 最後、福岡藩においては筑前勤王党が藩政を握ることになり幕府側だった家老の一人である浦上が四境戦争で対応を誤り、長州藩が勢いづく原因を生んだとして藩政を乱したことを自責して切腹……と、表向きに称される状態になる。また残された幕府側の三家老の最後の一人であった久野も原因不明の病没……ということになり、藩政は完全に開国に回った。そしてこれからの動きに関しても薩長との密約を交わしており、新政を目指して蠢動していく。



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