第15話 談話の時
幕末の博多、武家が住む福岡の街と双璧を成して商人が集う街。その博多だが、この時は神屋、嶋井、大賀を頂点として形成されていた。幕末においては大賀家が黒田藩の御用商人とされ、頂点に立つことで光を浴びるがその影に隠れた釜屋惣右衛門と言う存在がある。
「釜惣」と名乗る彼ら瀬戸一族が経営したのはの櫨蝋板場と販売。つまり、蝋の商人だ。蝋は当時の博多における主要な産物であり、福岡藩の専売品でもあった。「博多店運上帳」によれば博多の町とされる98町程度の範囲に大小合わせて全体で2280店あまりある店の内、櫨蝋を扱う店は126店もあったそうだ。これは代呂物問屋(日用品を扱う雑貨店)、柑橘類販売に次ぐ3番目に多い業者だったと言われる。その蝋を扱う店の殆どを牛耳っていた大商が釜惣である。
そんな釜屋、惣右衛門の下に壱心はやって来ていた。会うなり茶室に通された壱心は恐らく高価であろう茶器を見て褒める。茶請けとして出されているのは幕末でも人気の高い最中。流行に乗り遅れていないこと、また幕末ではまだ高価な砂糖をふんだんに使った菓子を一個人のために用意したというもてなしの意を示しているのだろう。
「お待ちしておりました。香月様、本日はようこそお出で頂きまして誠にありがとうございます」
「お、中々繁盛しているようで」
「いえいえ、まだまだでございますよ……さて、まずは交渉の前に一服如何でしょうか? こちらの最中は求肥が中に入っておりまして、美味ですぞ。それとも上方の方ではこのようなものも食べ飽きておりますかな?」
「とんでもない」
菓子の器を持って作法に則った後、菓子を食べる。中々に甘い。餡や求肥にも砂糖がケチられていないことは釜惣がそれだけのものを大名でもない壱心個人に対して払っているということであり暗に壱心をどう見ているのか、そして釜惣が現在どれだけの力を持っているのかなどを示しているようだ。
「ほうほう、これは中々のものですな」
「お気に召したのであれば後ほど包ませていただきますよ」
釜惣の頭である瀬戸はそう言いつつ壱心が過去に何かを勧められた際よりも強い拒否の言葉を使わないのを見て彼がこの最中をそれなりに好むという判断を下して記憶に留める。この程度の最中、情報を手に入れるには安すぎる情報料だ。瀬戸からすれば壱心は上客も上客で、決して繋がりを手放したくない人物でありそのためには些細な情報も大切だと考えている。
そんな思考を一切面に見せず、人のよさそうな笑みを浮かべて瀬戸自ら茶を点てて壱心に手渡す。作法に従い壱心はそれを飲み、その所作を見てお決まりの言葉を告げてからが本題だ。あまり時間もないので壱心の方から切り出す。
「さて、本日ここに来た用件だが近頃の日本を騒がせた事件は届いてますかな?」
「はてさて、心当たりが多すぎて困りますが……それは馬関戦争のことでよいでしょうか?」
壱心は首肯する。馬関戦争は長州藩と英米仏蘭の四国連合艦隊による戦争であり、四国連合下関砲撃事件とも呼ばれるそれだ。8月5日に始まり8月8日に長州藩の大敗と言う形で終わり膨大な賠償金を請求されたそれは長州藩が強硬な攘夷を諦めてイギリスに近づき軍備増強に努める大きな要因となる。
その事件にさしあたって、壱心は瀬戸に情報を売りに来ていたのだ。これはまだまったくもって不確定の事実であるが壱心はこれまでの実績があるためその信頼性は高い。
「馬関戦争が終わったところで幕府は長州征討に出てくる」
「何と、また戦争ですか?」
瀬戸はそう言いつつもこの程度は読めていた話でありそれほどまでに驚かずに顔だけ驚いて見せる。しかし、壱心はそれに更に続けた。
「いや、長州に戦う力はない。禁門の変、馬関戦争と続いたからな。家老の切腹でことを収めて過激派を追放するだろう」
「……ほう? ことはそれで済みますかな?」
「あぁ、こちらから働きかけてそうさせる手筈になっております」
なるほど。ここからが本題のキモか。そう思いつつ瀬戸は壱心にそれとなく話を促す。しかし続く話にも釜惣にとってうまみのある話はなかった。それでも瀬戸は慌てずに壱心の話を聞き続ける。客に会えば毎回成果を得られるわけではない。こんな日もあると思いつつ話を半分聞き流しながら壱心の言葉を聞いていると壱心の方もようやく警戒を緩めたかと話を少し飛ばした。
「この交渉の結果として現在、萩におられる五卿は安楽寺(大宰府)に入られることになる、と俺は考えている」
「なるほど……して、その話の出どころは……?」
壱心の言葉がいきなり飛んだこと、そして話の内容から瀬戸は緩みかけていた意識を変えて真剣な表情で壱心に問いかける。対する壱心は眉一つ動かさずに端的に告げた。
「俺がこちらに戻って来てから筑前勤王党の内、穏健派の方々……加藤司書様、黒田溥整様、矢野幸賢様、喜多岡勇平様、建部武彦様、月形洗蔵様らとの談話によって決まったことだ」
これでは壱心の考えと言うよりすでに大筋の内容が決まっていることではないかと瀬戸は緩みかけていた気を取り直して壱心にその詳細を尋ねる。話に上がった人物はどれも筑前勤王党でも名の通った人物たちであり名を騙ることは許されないだろう。ついでに言うのであれば過激派だった人物たちの一部が名を連ねている。これは藩論が整いつつあるという情報でもある。
更に五卿と言えば八月十八日の政変で権力こそ剥奪され、疎んじられたものの朝廷、また貴族に対する一定のコネクションは強いものだ。権威失墜している今こそ安く恩を売りつけて後で高く取り返す機会。想定以上の不味い人物たちであれば近づかない方がいいと知ることが出来た勉強代として片付ければいい。どちらに転んでも損はないと瀬戸は壱心から情報を買った。
一刻ほどして、壱心は土産物を貰い釜惣を出て自宅に向かっていた。今回は特段売りつけるものもなく壱心の改革に際しての進捗確認と単なる話題提供の下で自身の価値を見せるだけの挨拶の予定だったため、特に成功も失敗もないだろう。
「さて、確認もできたことだし俺の方も動くかね……」
しかし、単に挨拶しに行ったところでことが終わるわけでもない。過去、内々に頼んでいた物の試作を釜惣から見せられて壱心は一定の進歩を確認して互いの信頼を深めた。
(ま、釜惣が過去に鋳物をやっていたからこそ頼んだものだが……それなりの速度で動いているからには相手方にも利益があるものだと見做されているみたいだな。それとも俺に対しての奉仕かね?)
そんなことを考えつつ歩いていると何故か壱心は自身の弟……厳密には実家から絶縁されているので弟とは言えないかもしれないが、弟である利三を見つけた。この地まで利三が出てくるというのに疑問を持ちつつどうするか素早く考えるも相手の方から接触がある。
「兄上、何をなされているので?」
「少し買い物にな。今から家に帰るところだ」
手に持っている釜惣からの土産物を無言で少し持ち上げて利三に見せる。買い物に来たとは言ったが何か買ったとは言っていないし、これを買ったとも言っていない。わざわざ壱心がこのようにぼかしたのは相手のことを警戒しているからだ。
ここ、博多は商人の町。用事もないのに一人で武家の子がうろつくような場所でもないだろう。まして金にゆとりがあるならば別だが香月家は幕末のインフレーションの中で資産こそ減らすことはないが禄のほとんどを生活費、そして知行地における治政に費やしているような状況だ。家督でも次期当主でもない利三が博多の町まで出て来て自由にできる金は殆どないと考えてもいい。加えて、香月家の現当主の厳格な教えからツケで遊ぶということもないだろう。
なれば、ここに来て壱心に話しかける理由として考えられるのは……監視。壱心はそう警戒しながら表情だけはにこやかにしておく。利三はそれに気付いてか気付かずか話を続けた。
「そうですか。少々お伺いに参ってもよろしいでしょうか?」
「……何用で? もうすぐ日が落ちる。父君らには伝えてあるのか?」
「えぇ」
なるほど、偶然会ったという線を自ら潰してくれた。しかしここで利三を拒絶することは出来ない。こちらに来て山中でリリアンのことを見られているからだ。
「そうか、ならばいいだろう」
「やった! よろしくお願いいたします」
壱心は弟、利三を連れて自宅に戻ることになった。
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