取るに足らない個人史
リリアンは1857年の末にタウンゼント・ハリス率いるアメリカ政府の使節団の一人と日本人の遊女の間に生まれた娘だった。
翻訳者ヒュースケンがアメリカ全権、ハリスの
そんなリリアンだが、歴史の闇の中に葬られてしまった他の子どもたちと違う点が幾つかある。その大きな点として、まず堕胎されることなく生まれてきたこと。これは名もなき米国の下士官の態度がその他の、単に性欲を晴らすために買った男とは違ったことが大きな要因として挙げられる。
とどのつまり、名もなき米国の下士官は遊女に恋をしてしまっていたのだ。入れ込んだ彼は彼の給金のほとんどを名もなき遊女につぎ込んで、子どもを育てさせた。しかし、プロの遊女として当然というか何というか。遊女の方は別に何でもないただの客……いや、金払いのいい客として下士官を見ていた。そして子どもであるリリアンは金を引き出すための道具だ。道具は必要な時に使えばいい。リリアンは自身を愛してくれている父親がいない間、母親から今でいうネグレクトを受けていた。
そんなある日、アメリカと日本の間で日米修好通商条約が締結されることになる。歴史的には様々な意義を持ち、日本においては特に不平等条約として一つの時代を終わらせて富国強兵の道に進ませる大きな出来事の要因となるこの出来事だが、遊女と下士官においては全く別の意味を持っていた。
日米修好通商条約第三条三項、居留地に周囲に囲い等を作ることなく、自由に出入りを可能とする。
勿論、下士官の方には様々な制約があっただろう。しかし、それは手続きによって公的に認められることとなった。彼の父親が当時のゴールドラッシュで成り上がりを見せていたことも下士官にとって何らかの影響を与えていたはずだ。
ここから、遊女も本気を出してくる。この点がリリアンが他の子どもたちと異なる点、すなわち彼女の母親は非常に頭が良かったのだ。まず、これを機に娘に対する対応も改めた。
そして次に下士官が声をかけてくる時の言葉を挨拶だと認識し、真似る。笑顔で囁く愛の言葉を少なくとも好意的な印象を与える言葉だと認識し、最初は小さく反応を見ながらだが真似る。寡黙な妻を演じ、本質は相手の観察に多くを費やし、真似ていく。
そして、何となく正確な意思伝達は出来ないもののニュアンスでコミュニケーションを図ることが出来るようになってから遊女は次に行動を移した。即ち、「これは何?」作戦だ。これは何か問うことが出来るようになることで自ら知識を得に行くことが可能になる。それを遊女は理解して実行した。
最初は「What's up?」と言う言葉をそれと認識してしまい、様々なものを指して同じことを言い、本当に心配されたが下士官の方も自分ともっとコミュニケーションを図るために言葉を学ぼうという意図を汲み取って協力してくれた。
そして、リリアンを取り巻く環境は英語のみになる。遊女は親に売られていたこと、また下士官が多額の金を払っていることから楼主から便宜を図られており、遊女は妓楼ではなく小屋に住むことになっていたため家には母と時折現れる下士官のみになっていた。
また、リリアンの姿が異国の少女にしか見えないことも家から出られない要因として英語のみの環境に拍車をかけていたのだろう。顔のパーツの形は殆どが母親の面影のあるものだが、色はすべて父親似だったのだ。更に時は幕末、攘夷が叫ばれている中に外に出そうとなど微塵も考えなかった。
時は流れ、1864年。リリアン七歳。彼女の父はずっと家、もしくは誰もいない場合にのみわずかな間だけ家の外に出ることしかできなかったリリアンを可哀想に思っていた。特に、この国の風習として女児を三歳と七歳で祝う風習があることを知ってからは猶更だ。彼からすればキリスト教を禁じられたようなものだろうと想像すると耐え難い。
そこで、下士官は彼女たちが暮らすこの場から遠いどこかで祝うことを決めた。この近辺で祝うことをしないのは今後のことを考えてだ。幸い、仕事の一環で遠出する命令と許可が出ている。翻訳者として遊女を連れ、彼女が子どもを連れて行くことを条件に引き受けてくれるということにして、少々実家のお金で押せば申請は通るだろう。
その予想は半分だけ当たった。半分、というのは申請が通るまで。そして外れた半分は祝うことが出来なかったということ。下士官は、上洛して来た長州藩の攘夷志士の手によって殺された。
そこからのリリアンの転落は早かった。母親である遊女はとても賢いプロだ。使えなくなった道具は必要ないし、戦禍から逃れるにあたって足手纏いなどもっと必要ない。リリアンは冷たい目で突き放され、助けを求められるも囮になるようにきつく命令されて一人取り残された。幼い少女が一人、初めて出て来た言葉もわからぬ外の世界で異国を嫌う過激派の集う街に。
しかし、ここがリリアンが他の子どもたちと違う最後の点。彼女を助けてくれる人がいた。それが、香月壱心。彼が彼女の手を引くことで、リリアンが今を生きることが出来た最後の理由が挙げられたことになる。
……これはどうしたことだろうか。
壱心へ付き人、そして監視役として最近派遣された大野歩は目の前で淑やかさの欠片もない食事風景を見せる少女を前にして考え込んでいた。彼が付き従う相手である壱心は異国の少女を軽く窘めこそするものの、無礼を咎めるような素振りは見せない。
(……これにも何か考えがあるのだろうか。ここまで、大局について読み違えることなく、時に京にいないとしても京にいる我々が知った時には既に情報を藩へと届けて来た香月様であれば単に間諜などと言って濁し、この娘を引き取るなどありえないはずだ……)
大野は壱心がこの娘を引き取ると言った時のことを思い出して内心で首を捻りつつ自らを納得させるために壱心の意図を飲み込もうとする。
彼にはアメリカに間諜として人を運ぶのであれば壱心が時折出かけて密貿易をしている相手のように別の人間を雇えばいいだろうという正論や情報に緊密性が持てない、国家間を行き来するというのに長い時間をかけての移動では秘匿性を保つのが難しいということなど様々な反論が浮かんでいる。
しかし、大野が考え付くことくらいは壱心も考えているだろうと首を振る。そうであるならば壱心がこの少女を引き取った理由は何だろうか。
(ダメだ、わからない……)
内心で落胆する大野。大野が分からないのは当然だ。彼女を引き取った本人ですら何で助けたのか不明なまま自身を納得させるために適当な理由をでっち上げて語っているのだから。そしてその疑問を抱えたままこれからの壱心の行動の予定について考えると更に首を傾げることになる。
(これから一時、藩に戻って加藤様と月形様に何かされると言っていたのに、このような巨大な荷物を抱えて一体どうなされるおつもりなのか……本当に、さっぱりわからぬ。まさか、まだ若いとはいえ大人になられた壱心様が恋心を抱くような年齢の相手でもあるまいし……)
大野は目の前で我に返り、大人しくなった少女と風呂に入れることに決めた壱心を見比べつつそう思いながらも京の都にて一悶着起こした際、世話になった相手である壱心を見限るということも出来ずにこれからについて頭を悩ませるのだった。
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