第8話 調整の時

 京中にいることになっている壱心だが、彼は藩にも黙って国内をうろうろしていた。目的は、外国との密貿易とコネクションの構築。

 ただ、密貿易の方に関しては壱心の直属の上司である加藤司書と藩主である黒田長溥との間に内密に届けを出しており、特に武器の買い付けに関しては藩の内部では大半の人物が知る由もないが、一部から壱心にその殆どが任されている。当然のことながら、有事の際には壱心は見捨てられることになるだろう。それでも、彼はこの任を買って出た。


「Thank you so much for your patient. I'm sorry to have kept you waiting for long. This way, please.」

「It doesn't matter. This way?」


 今日も密売人と出会って商社の真似事だ。場所は日本海、相手はジャーディン・マセソン商会の英国商人の一人だ。壱心が手に入れた伝手は史実における明治期の重要人物、死の商人グラバーではなく、その親会社と結びついていた。

 そんな壱心は清国から日本にやってきており通訳者を連れてきていながら壱心でも聞き取りやすいようにゆっくりと簡単な単語を話している。


『さて、随分発音がいいみたいだけど君は英語を話せると見ていいのかな?』

『大したことはないのでお手柔らかにお願いします』


 何となく皮肉っぽく感じるのは英国人だからだろうかと考えつつ苦笑してそう告げる壱心。しかし、日本に来てグラバーのように駐留することがなく大勢の人間と直接交流をしたわけでもない商人からすれば壱心には笑って話すだけの余裕があると見て饒舌に話し始めた。


『はは、分かったわかった。じゃあ代わりに商談の方は厳しくさせてもらってもいいかな?』

『今回はご挨拶、ということでよろしくお願いしますよ』


(……この後、馬関戦争と薩英戦争が控えてるから今大量に買ってもどうなるかは不透明だし、今買うよりもアメリカの南北戦争が終わる頃に買い叩いた方が得だしな……)


 壱心は英国商人が行う立て板に水と言わんばかりのセールストークを聞き流しつつ相槌を打って聞いている素振りを示しつつ考える。

 今後の歴史展開として、イギリスは一度武力介入による植民地化は可能かどうか軽く探るために薩摩藩士の無礼討ちによるイギリス人殺傷事件、生麦事件を口実として薩摩に攻め入り対立するのだ。


(イギリスもロシアの太平洋進出を確実に止めるためには対馬辺りが欲しいからな……日本が簡単に潰せそうならペンじゃなくて剣……ま、彼らからすれば銃か。そっちを使うことになるだろうし、まだ武器は売ってくれないよなぁ……)


 史実の日本史において死の商人として名を馳せ、倒幕と維新に多大な影響を与えたグラバーも1863年のこの時期はまだ艦船や武器の販売を行っていない。彼らが武器を売り始めるのは薩英戦争後、文久三年八月十八日の政変によって政治的混乱が生じた翌年の1864年からだ。

 死の商人と名高いグラバー商会の背後にいるジャーディン・マセソン商会が今現在日本で扱っているのは輸出として西洋織物や材木、薬などであり輸入品は石炭、干し魚、鮫皮、米などだ。しかし、殆どの物に対しては大した価値があるものとは考えておらず、期待する商品はお茶と絹織物くらいと考えている。

 ただ、彼らが期待する絹を一定量輸出可能かどうかという点について壱心は少々心当たりがあり、今回会うことが出来ていた。


(まぁ、金に関しては別だけどなぁ……)


 そんなことを考えつつ壱心は彼らの持ち込み品である薬の説明を受ける。そのついでに禁制品のアヘンの密売をジョークという形で持ち掛けられ、壱心としては少量であればこの時代に多い虫歯に対して麻酔薬として用いてもいいんだが……と思いながらもリスクを考え、愛想笑いで誤魔化して彼の話を続けさせた。


(まー今回は適当に……上客と思わせるためにご祝儀価格で絹を渡して、それなりの量の絹を向こうで回すことで宣伝とするとして。去り際に釘を刺して印象付けておくか……)


 そう決めた壱心はある程度相手に話させることで気分を良くさせたところでわざわざ福岡藩から用意しておいた絹織物を取り出して相手に見せる。これは壱心と懇意にしている釜惣と共同で生産した座繰製糸だ。


(もう少ししたらボイラー式の器械製糸が出来るんだが……維新後だな。準備だけはある程度進んではいるが……)


 座繰製糸よりも効率のいい器械製糸を早いところ行いたいと思いつつまだ早いと諦めておく壱心。器械製糸には技術とある程度の初期投資が必要になる。今の彼の状況では技術を手に入れることが難しいのだ。

 ただ、初期投資の材料については壱心にはある程度当てがある。特に、ハードルとなる石炭についての話だ。基本的に日本から多くとれる石炭の種類としては産業用ボイラーに適した亜瀝青炭という種類であり、現在の福岡藩における石炭の主要産地である遠賀、鞍手、嘉麻、穂波周辺から取れるものも同様だ。


(どこの国でも工業の発達は軽工業から重工業だしな。無駄なくしっかり稼がせてもらって資本蓄積を行わせてもらうぞ……勿論、政府資金も潤沢に使わせてもらうが……)


 英国商人が絹織物について見ている間に思考を飛ばしていた壱心だが、相手の確認が終わった時には思考を商談に戻す。


『いいものだね。気に入ったよ』

『それはよかった。では、こちらは友好の印ということで差し上げます』


 壱心はサンプルとして渡していた絹織物の内、髪飾りとして作ったリボンを贈呈する旨を伝える。それを受けて英国商人は破顔した。


『ハハッ、いいのかな?』

『えぇ……そちらはスペインから広まった蚕の病気で不足していると聞きますし、困った時にはお互い様というわけで』


 19世紀半ばにスペインから起こったフランスの騒動について暗に知っているぞと告げておく壱心。このことから、壱心には別ルートでの窓口も持っているということが相手にも伝わる。

 そんな、相手の顔も感情も微妙な顔にしたところで壱心は警戒を解くように笑いかける。


『これから、西欧諸国からの買い付けで絹織物の価格は吊り上がり、粗悪品すら出回るようになっていくと思いますが我々はお互いにいい関係を続けていきたいですね?』

『フッ……お手柔らかに頼むよ? 壱心』


 ここに来た時と真逆だなと笑ってくる英国商人とある程度親しくなったと見て今回の会談の成功を認識する壱心。この後も滞りなく商談は進み、壱心は藩の専売品を売ることで外国とのルートを確保することに成功した。




 そんな壱心たちの動きとは関係なく、日本とそこに訪れている諸外国の関係を揺るがす事態が史実通りに発生する。


 文久3年の5月11日の午前2時過ぎ、長州藩が小倉藩の田ノ浦沖に停泊していたアメリカの商船ぺンブローグを砲撃したことを皮切りとして23日にはフランス軍艦キャンシャンを、26日にはオランダ軍艦メデューサ砲撃し6月1日からアメリカ・フランスによる反撃を受けて下関事件が始まることになり、長州藩の軍艦は全滅。長州藩にあった砲台も壊滅状態に追い込まれる。

 一方、7月には薩英戦争が起こりこれは長州程の壊滅状態には至らなかったものの手痛い敗北を喫してしまう。


 これらの出来事をきっかけとして国内においては諸藩が本当の意味で挙国一致について考え、攘夷の方法について転換を図ることになり、国外においては諸外国をどう出し抜いてアジア市場を狙うかという動きが始まることになる。


 さて、武力攘夷決行に当たって国内外の動きについて触れたがここから更に国内の情勢について深堀する。

 朝廷が望む攘夷のために武力を用いた薩長だったが、この後の方針については意見を分けた。長州は大打撃を受けたにもかかわらず武力攘夷をなおも推し進めようとするのに対し、薩摩はこの後、武力による攘夷は天皇が望んでいないということを天皇直々の手紙によって知り、武力による攘夷を取りやめることになる。

 しかし、なおも武力攘夷を求める朝廷内の強硬派は薩摩のような考えに納得するわけがなく、天皇を利用して自らが考える攘夷を決行しようとする。


 これが天皇の逆鱗に触れ、文久3年8月18日。ついに朝廷内の強硬派は追い出されることになる。しかし、いかに強硬派であり暴論を吐いていたとはいえ、ある程度の賛同を得て実務をしていたのは事実であり、この抜けてしまった穴を埋めるために協議が行われることになる。ここには福岡藩も加わっており、議論を交わした。


 その6日後の8月24日、壱心が動く。ここからが壱心が意図して国内の史実に介入していく初手となる。



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