第6話 修練の時

 脱藩という密命を受け、壱心が自らの身体を鍛え上げ始めて既に一年以上が経過していた。時は既に文久2年(1862年)の秋、幕府の動乱も盛り上がりを見せている時期だ。壱心の鍛え上げられた体にも力が入る。


「ゼァアァッ!」


 裂帛の気合を込め、一刀のもとに直径50センチはあろうかとする生木の大木を横薙ぎに斬り倒す壱心。刃を立て、体の運用を瞬時に、正しく行う技量。そしてその技量を押し通す力量が兼ね備えられていなければできない芸当であり、それを達成することが武人としての一つの到達点でもある。


 ただ、壱心はそれでも満足していなかった。


 一先ずは振り抜き様に回し蹴りを入れて人一人など簡単に押し潰せそうな大木をこちら側に倒れないようにし、周囲にある他の木の枝を圧し折っていく様を見つつ樹液で汚れた刀を懐紙で何度も拭う。それが終わると刀の確認をし、異常を認めなかったため納刀。手入れは後で行う。


「……間に合わなかったか。いや、一つの到達点には何とか辿り着けたんだ……今は、それで」


 そう呟きつつ自身を納得させる壱心。彼はもう今月中には脱藩することが決まっている。というのも、文久2年の今年は既に様々な出来事……主に四月より始まる雄藩の動向、特に薩摩の動きからこれ以上の猶予はならないと藩主からも早急に情報収集の必要性が伝えられているのだ。

 必要とされる情報は突き詰めて言うのであれば朝廷につくか、幕府につくか。現状で優位に立っているのは幕府だが、朝廷には様々な思惑はありつつも薩摩などの雄藩がついている。

 更に、五月に天皇が幕府に和宮稼行の条件として命じた破約攘夷(列強との間に締結した不平等条約の改正)の密約を公表した。これは朝廷からすれば未だ攘夷を成さない幕府に対して契約の早期履行を促すものだったが、民衆からすれば幕府に恨みを抱かせるものだった。


(これから幕府は民衆の不満への対処、朝廷への対応、列強との交渉、各藩への措置などに力を割いて行くことになる。特に、来年からは下関事件や今年の8月に生じた遺恨から薩英戦争もあるからな……)


 懐のメモを取り出して確認する壱心。史実通りに起きた寺田屋事件、文久の改革、生麦事件に続発する過激派によるテロ。幕府のリソースは完全に対処能力を超えており、それを見かねた朝廷より各藩に勅使が派遣され、福岡藩にも上京の要請が内旨として下されている。そしてこれに幕府の許可はない。

 そして、史実通りに行くのであればこれからも事件は多発し、幕府はその対応に後手後手になることで更に権威を失墜させていく。


(さて、藩に対する上洛の要請が出たことで俺もそれについて行き、現地でスパイ活動のために残ることになったんだが……新兵衛は江戸まで上ることになるとはなぁ……)


 一緒に頑張るはずの人物が別のところに派遣されることで少々、自分の仕事が増えすぎているような気がして悩む壱心だが、京にいる福岡藩の留守役藩士を使うことでその辺についての合意を得ている。


 ただ、彼らが自分の言うことを聞いてくれるかどうかは知らないが。


(俺の知らない記憶によると現在の京は過激な攘夷思想が民間にまで漂ってるらしいからな……天皇の意思が強く反映され過ぎている。)


 壱心は自身がこれからやるべきことと環境の差異に瞑目する。薩摩藩の武士が生麦事件で無礼討ちをしただけでも民衆が道いっぱいに挙って彼らを攘夷の英雄として迎え入れた話は知識として知ってはいたが、現実を目の当たりにすることで壱心の内心をうすら寒くした。これから壱心がやろうとしていることはどれくらい反感を買うのだろうか。


(いや、今はそんなことを気にしている場合じゃない。やらないといけないことを済まさなければ……)


 一先ず、今現在やらなければならないこととしてこの訓練場の後始末。自身の訓練のせいで少し開けた場になったこの場にある器具などを破壊して周り、保存すべきものに関しては一部の壊れやすい物だけ隠し蔵に仕舞ってその他を落とし穴に入れて埋める。


「お世話になりました」


 肉体だけではなく精神に対する成長も促してくれたこの場と道具の供養として礼をした後、壱心は途中で水浴びをしてから山を下り、自宅に戻った。




 下山するスピードも歩くスピードも以前よりも格段に速くなっている壱心が自宅の蔵に戻るとそこには三男である香月利三がいた。現在、数え年で十歳を迎えた利三は戻って来た壱心を見て笑顔を見せる。


「おかえり、兄上。さっそくだけど……」

「おう、算術だな」


 戻ってきて早速の催促に壱心も苦笑しながら利三の隣に座る。この時代、算術は武士にとって細かいことに拘る小人の技とされ、賤しいものであると見做されていたため広く熱心に教える先生はいなかった。

 これにより詳しい算術に関しては世襲の世界、閉じた世界として発展していたが、その禁止されていることを使いこなす感じがまだ子どもの利三のツボにはまったのだろう。元来持っていたセンスと掛け合わさって現代における小学生レベルの計算はすべて出来るようになっていた。


「それにしても数字って便利だよね~黙って使ってるけどさ、みんな『徳』がどーとか何とか言って適当にやってさ、ホント役に立たない馬鹿ばっかだよ」

「利三、思っていても他所じゃ絶対に口に出すなよ?」

「わかってるよ」


 周囲に算術では戦うレベルにある相手がいないことからか天狗になっている利三。しかし、彼はそれを表に出さないように振舞うのが非常に上手い。そのため、先生受けや大人受けも抜群だ。


「ホンット……数字は嘘つかないからね。ウチの家計を見てもわかるけど」

「お前なぁ……お、ここ間違えてるぞ?」

「うそ! あっ……ちぇっ」


 頭の中で既に答えが出ていたことからその数字を式の続きに書いてしまって約分の時に失敗しているというミスをしていた利三にそう指摘すると利三は少しだけその問題に集中して黙る。しかし、その修正が終わると話題は戻った。


「妙に節約されてるんだよねぇ、兄上が家から半分追い出されてるってのにさ」

「それだけ米価の高騰が激しいんだろう。仕方ない」

「それを含めたとしても、だよ。藩主様が上洛しないといけないってこと、大きな戦があるかもしれないってことを考えてもね」

「利三、予想はあくまで予想に過ぎないんだぞ? 知ったかぶりで行動していると痛い目に遭う。気をつけろ」


 何でもお見通しと言わんばかりの振る舞いを見せる利三。外では決して見せない素の姿を窘めることが出来るのは壱心だけだ。しかし、その壱心の反応を見て利三は溜息をつく。


「はぁ……兄上は頭はよくなったのに心は鈍くなったよね。頭と体に栄養盗られすぎちゃったのかな? って、冗談だからね?」

「……そこまで慌てなくていい。多少苛つきはしたけどな」


 危険を察知した利三。壱心がいくら軽めに叩くとしてもその拳が大木を貫いたのを見たことがある利三からするとぞっとする。利三は未だに壱心との距離感だけは掴めていなかった。


「あー、兄上だけは加減がよくわかんない」

「そろそろ父上が戻ってこられる時間だ。蔵を出た方がいい」

「え~? いつもより早くない?」

「俺には分かる」


 壱心にそう言い切られてしまうと利三は言われる通りにすることしかできない。過去の壱心の発言による実績が積み重なっておりいかにも事実に聞こえてしまうからだ。それを理解している利三はメモ書きを持って立ち上がる。


「それじゃ、またよろしくお願いします」

「おう、稽古の方も頑張れよ」

「……まぁ、うん」


 壱心に負けじと頑張る父の太一と兄、次郎長のせいで過激気味になっている自宅の稽古を思い出して嫌な顔をする利三。外の稽古ならまだいいんだけどなと誰にも聞こえないように利三は呟きつつ壱心を残して屋敷に戻っていった。


「……さて、この家を出るまであとわずか」


 利三の気配が完全に遠ざかってから壱心はそう呟いて机に向き直る。そして筆を執ると初等教育レベルの算術と統計の基礎についてのまとめを作り始めた。


(今日のテストを見てもやはり、利三のセンスはかなりのものだった……アレを腐らせるには勿体ない。俺が出ていくまでに出来る限りのことは教えておくつもりだが……俺がいなくなってからも、出来ればこれを基に勉学を続けてくれれば……)


 そんな願いを込めて、壱心はなるべくこの時代の人間に分かりやすいように。そして見つかったとしても問題ないように江戸で発達している関流の算術に似せて書くように努力し、出立の日を待った。



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