変わりゆく人々
「……壱心の奴、何があったんだ……?」
安川 新兵衛は日に日に逞しくなっていく壱心を見て首を傾げていた。現在、壱心は執政である加藤司書が命じた乱稽古の真っ最中で、2人を相手に攻勢一方という様相を見せている。
それを見て新兵衛は首を傾げる。彼の知る香月壱心は体格と才能にはある程度恵まれてはいたものの、不平不満ばかりで行動に移すことは少ない人物だった。しかし、今の彼は不言実行を信条としているわけではないだろうが、一見するとそれにしか見えない振る舞いをしている。
(流石に、友人としてあいつに完全に置いて行かれる訳にはいかねぇけど……いい加減キツいぜ……)
同い年、そして小さい頃から一緒に過ごしてきた間柄ということで一人だけ置いて行かれるのは気に入らないと努力を重ねる新兵衛。正直に言うのであれば、壱心より自分の方が優れていると密かに思っていたため、抜かれるのが気に入らないということが努力の原因だった。
だが、最近はもはや抜かれる、抜かれないの問題ではなく完全に抜かれており、追いつくどころか差を広げられないための努力だけでも悲鳴を上げたくなっていた。それほど壱心の努力は彼のモノを超えているのだろう。
(やっぱり、時代の流れに危機感を持ってるんだろうな。これからは俺たちがこの国を担っていかないといけない。それに、脱藩して故郷を離れてからは自分たちの力で色んなことを潜り抜けて行かないといけないんだし。)
時は既に1861年10月。和暦に直せば文久元年の9月の頃であり、壱心と新兵衛が加藤より密命を受けて1年近くが経過している。この年の2月にはロシア軍艦ポサシニカが対馬を不法占拠しており、7月になってようやくロシアの太平洋進出を阻むイギリスが軍艦を派遣することで追い払うことに成功するという危機があり、皆が強くあるということに意識を払っており、稽古にも熱が入っている。
また、このような混乱の中で世間では今月中に朝廷から和宮が将軍家茂に嫁ぐために京を出るらしい。
これは幕府が朝廷に強制したという政略結婚の様相を見せるものだが、同時に幕府独力では国の混乱に対処できず、朝廷に頼らざるを得ないということを示してしまっているものでもある。
しかし、世間の目は挙国一致体制で国難に当たるという好意的な目で受け止められていた。ところが新兵衛はもう一つの要素を加えて思考する。
(でも、だ。幕府が政治の主役で、諸藩は幕府に従わなければならないという常識に、朝廷が混じることで各藩は時流を、政治主体を、きちんと見極めないといけなくなった。)
新兵衛は未だ幕府が政治主体であり、朝廷の力は弱いと考えている佐幕派の考えに対してそう考えていた。当然、それを表に出すようなことはしない。それを表に出した福岡藩士である月形 洗蔵が今年の4月に関係者25名ほどを含めて幽閉されているということに示される通り、未だ幕府否定の考えは許されない時なのだ。
「おーい、新兵衛。次、稽古しようぜ」
「……どんな体力してやがんだよてめぇ……」
思考の始めに見ていた二人を倒し、更にやって来た1人を3回倒して息を切らすことなく新兵衛を指名する壱心。その顔に疲労の色は見えない。
「休憩は済んだだろ?」
「……あーもう! やったらぁっ!」
好戦的な笑みを浮かべる壱心に劣等感を感じて努力していた新兵衛は今、それを既に過去のものとして新たな世界に向けての歩みを続けていた。
(どうして兄さんばかりが……)
香月家次男、香月 次郎長は加藤の使いに呼び出されていなくなった兄のことを思いながら木刀を振るう。その剣は一年前まで次郎長が使用していたものに比べてはるかに大きくなっており、次郎長の成長が窺えた。
しかし、次郎長は己の進歩に決して納得いっていなかった。理由はそれを遥かに超える成長を見せている兄、壱心の存在だ。
(家を継ぐのは俺、これから家に貢献していくのも俺だ。父上だって俺に期待しているって言ってくれたんだ……なのに、何で加藤様は兄さんばかりを……!)
いや、加藤だけではない。自分に期待していると言っている父、太一すら心のどこかでは寂しそうな表情を覗かせて次郎長を通して壱心を見ているような気がする。これは勿論、次郎長の勝手な想像であり、太一がそういった言動をしたことはないのだが次郎長はどうしても兄と比べられる自分という構造を意識してしまっていたのだ。
(そして、俺も……)
浮上してきた思考に手が止まる。それをすぐに意識の力で修正して再び、今度は先程よりも激しい動作で木刀を振るう。まるで目の前に浮かんできた思考があり、それを木刀で滅多打ちにするような動作だ。それでも、浮かんできた思考が消えることはない。
(本当は、兄さんが何で家を継がない……継げなくなったのか、わかってるんだ。察せない方がおかしい。だけど……)
それを認めてしまえば、自分たち家族が捨てられてしまったということを認めることになる。今の壱心を家族から切り離し、捨てたという構造から真逆の状態になってしまう。次郎長からすれば自分を囲う環境全てを否定されるようなものだ。到底受け入れられない。
(先生は、俺がもう少し大きくなったら色々分かるって言ったけど。俺には絶対分からないし、兄さんのことをわかりたくもない……)
しばし瞑目し、そして木刀を振るう手を止める次郎長。彼は認めたくないものに直面し、傷付きつつもそれを乗り越えるために成長を続けていた。
「洗蔵、だから言っただろう、
福岡藩のとある屋敷の座敷牢にて。木で作られた頑丈な格子越しに男たちは会話をしていた。牢の中にいるのは福岡藩における尊皇派、筑前勤王党の過激組に属する男、月形洗蔵だ。
彼は参勤出府、いわゆる参勤交代に関して参勤せずに在国し、富国強兵に努めるべきだとの建白書を藩主、黒田長溥に提出し幕府の叱責を招いたとして今年の4月に幽閉されていた。
それに対して牢の外にいるのは筑前勤王党の穏健派であり、福岡藩執政でもある加藤司書だ。その隣には藩主、長溥が重用している喜多岡勇平が静かに立っていた。
「加藤様、でしたら加藤様よりも建白をお願い申し上げます。今、時流に乗り遅れ国力を高めることが出来なければ夷狄にこの国は食い荒らされます。今は形式儀礼に拘っている暇はないのです!」
牢の中から激しい口調でまくしたてる月形。しかし、加藤が口を開くと月形も加藤の言葉を待つ。その瞳には期待と、そしてそれよりも大きな諦念が籠っていた。
「私からの攘夷に関する建白は、時宜を見て行う」
「ですから、その時宜は今なのです! 直に脅威を見てきた私には分かります!」
「急いては事を仕損じるぞ……そして、脅威ばかりを目にして、自国のことは目に見えておらぬらしいな……」
激しい論調に対して加藤は静かに、しかし重圧を込めてそう言った。それにわずかに怯みつつも月形は続けた。
「政治の中心を、見てきました。幕府に最早過去のような絶対的な力はありません」
「口を慎め。今のお前は感情ばかりが先走りしている。だから、自身の置かれている状況も見えていないのだ……何、事が始まるまで猶予は僅かながらある。今を見過ぎて少し先に転ぶことのないよう、己を見つめ直すのだな」
加藤はそう言うと隣にいる喜多岡を見る。彼は加藤の言葉に付け加えるように言った。
「あまりに強い言葉を発すと、強い反発しか生まない。お前の意見もわかるが、急激な改革も反発を生むだけだ。緩やかに、徐々に変えていくことを考えた方がいい」
「それでは間に合わないのです……!」
「それはお前が決めることではない。時間だ、今言ったことをよく考えて謹慎しろ……」
互いに説得は出来なかったか。そう思いつつもある程度伝えるべきことは伝えられたのではないかと考えつつ分かれた二組。一つは光差す道へ上り、もう一つは薄暗い牢の中で自身の在り方を再び模索することになる。
ただ、牢の中の炎が消えることはなかった。
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