第5話 研鑽の時
さて、幕末の世に目覚めて自身を鍛え上げていた壱心だが、それは当然のことながら発展するにつれて現代からすれば常軌を逸したものであった。
彼はこの時代における暗殺を非常に恐れていたが故に過去のトレーニングで満足いかず、鍛え直しを行っているのだ。普通に鍛えた程度、相手と同条件では殺される可能性が高くなるため本気で鍛え上げている。
この時代、ほとんどの行動において人力で賄っている時代であり現代の人間からすればかなり高水準にある身体能力を持つ人々が多数派を占めている中、戦闘に特化したのが武士という職業だ。確かに、治政にも携わり、現在で言う公務員のようなことが主な仕事ではある。
しかし、国難に際している現在。様々な思惑が渦巻く中で万一に備えて本業を疎かにしている若い武士は少なく、基本的に娯楽も少ないことも手伝って、その時間で鍛えているためかなり強くなっている。
特に半分農民で困窮した生活を送っている武士が多い中で壱心は純粋な武士として、しかも長男として家を継ぐ者として育てられており、この時代の日本人からすればかなり大柄だったため普通に考えると特別なことはせずともかなり強い。
それでも、何度も言うようだが彼は普通で考える範囲では満足いかないのだ。
「ハァッ!」
知行地の鍛冶屋に作らせた1つ1貫(3.75㎏)ある重りを両手にそれぞれ3つ巻いて身の丈もある幅太の木剣を振る壱心。最初は木剣のみで始めていたが今では片腕に付けている重り1つ分の方が木剣よりも重い。
「っか……ふぅ……」
振り、薙ぎ、突く。最初は重り1つだけで決めていた基本動作だけでも他の訓練の疲労も相まって手首や肘などの関節部分が悲鳴を上げていたが今では手慣れたものだ。急に動作を変更しても易々とついてくる。
これが終わると次は体術に移行する。足場の悪い山の中。それでも壱心には関係のないことだ。軽やかな足捌きと共にその場から移動すると縄を巻いてある巨木へと上段蹴りを入れる。
(……そろそろ、巻なしでいけるか……?)
木が圧し折れそうだと悲鳴を上げる音がする。こちらも最初は連続で蹴る内に脚を上げるどころか立っていることも嫌になるような脛の痛みを覚えたものだが今となっては考え事をする余裕まである。片足の腿だけで子どもの胴ほどもあるその力は遺憾なく巨木に伝えられているようだ。
前蹴りに横蹴り、回し蹴りと逆蹴り、膝に連続、刈蹴りまでやったところでお次は拳だ。手技を意識した速い突きに上半身の力を滑車の如く使う突き。体重移動を用いるものや肘、指まで鍛え上げていく。それも、薄い麻袋に入った砂利を相手に。
(……あ、破れそう。釜惣に行かないとな……そろそろ頼んでおいたものも出来るだろうし。)
藩単位で贔屓にしており、近頃では上洛に当たっての賄い方などを受けている釜惣。壱心個人としても贔屓にしている店に後で行くことにして新しい物を買うことを決める。ともなれば、これは捨てるため破っていいとばかりに猛打の嵐をぶつけて思惑通りに引き裂く壱心。その手から痛みは伝わらず、蹴っていた木を殴ることで代替して突きの訓練を続ける。
これも終わると今度は体捌き。重心移動に始まって頭で考えるよりも早く山中を駆け巡り、往復する。起伏に富み、遮蔽物や障害物の多い山の中で壱心はフリーランニングの技法も駆使して平地を駆けるだけではなく木々の間を飛び交い
その動作はフリーランニングの技法を取り入れていながらも魅せるものではなく、ほとんど無駄のない動きだった。
(……最低限、ってところだな)
始めた当初は高いところからの着地(ランディング)や衝撃を殺すロール。目的地へ正確に跳ぶプレシジョンすらままならなかったが、今となってはフィクションにいる忍者のような動きを自在にできるようになっていた。これはフィジカル云々よりも人間にこの動きが出来ると知っていたことが大きな要因だろう。人間の思い込みの力は良くも悪くも凄まじいからだ。
「……今日は体幹やって終わり。後で釜惣に行かないとな……」
一応、期限内における自分の納得のいく範囲であることを確認した壱心はそう言って頷くと肘から先を地面について体を一直線に持ち上げて動きを止める。1年間鍛えに鍛えた彼は既に当初定めていた体力検定1級の実力を得ており、今は対人などを通して応用に移ると共に応用のための地力を高めていた。
それらのトレーニングが終わると彼は密かに作った倉庫から自作の生薬を取り出すとそれを煮、野にいる獣が寄り付かないような異臭漂うそれを飲み干してから立ち上がり、壱心を窺うように囲んでいる周囲の気配に気づいた。
「おっと、犬どもは今日も餌をとれなかったのか……仕方ない」
ハンドサインを素早く頭上に出す壱心。すると、ニホンオオカミが4頭草むらの中から飛び出してきた。壱心が彼らの頭を撫でると彼らは耳を伏せた状態で挙動を止めて全力で警戒する素振りを見せる。
「やっぱり懐かないのか……まぁいい。何を狩るかな」
干し肉はあるのだが、野生動物が食べるには塩分過多だろう。幸い時間もあるので壱心は人外じみた動きで周囲を駆け巡り猿を発見するとそれを斬り落とし、自然のままに狼に与えてからさっさと下山した。
そして博多の街に繰り出して少々小金稼ぎと人脈作りのために勤しんだ壱心は夕暮れすぎに帰宅した。そんな壱心の前に現れたのは末弟の藤五郎だ。彼は家族の皆が壱心のことを冷遇しているという雰囲気の中でまだ幼いが故によくわからず、壱心が帰ってくると無邪気に喜ぶ。
「にーちゃん! あそぼ!」
「藤五郎……?」
何で家の外に? そう思って壱心が周囲を探ると家の中には来客が来ていることが分かった。それと同時に、文が何かを探して家の廊下をうろついていることにも気付く。
「藤五郎、お前文に「ねーちゃんはいいの!」……」
はっきりと言ってのけたことで藤七郎が何かを隠していることが分かった。いや、薄々察してはいたがそろそろ湯浴みの時間だろう。じっとしているのが嫌で藤五郎は逃げ、何も知らないはずの壱心と遊ぶことでそれを免れようとしたに違いない。
「藤五郎、お前風呂「いいの!」……よくないぞ?」
語るに落ちた藤五郎を抱え、壱心は藤五郎を時々高い高いしながら歩き始めた。その状態を愉快に感じる藤五郎はキャッキャッと喜んでいたが、だんだんと自宅の方に近づいているのに気付くと暴れようとして……落ちる恐怖に気付き、木登りをして降りられなくなった子猫のように成すがままにされる。
「あ! 藤五郎、と……兄様」
そうしている内に文が騒ぎに気付いて壱心と藤五郎がいる方へとやって来た。彼女は気まずそうに壱心を見るが、肝心の壱心の方は気配を探る術に関してもなかなかの仕上がりであるということに小さく口の端を歪める。その笑みを文は独自に解釈して更に居心地を悪くするが、そんなことには気付かない藤五郎が抱っこされたまま不貞腐れた。
「壱にーのいじわるー!」
「ほれ、ちゃんとキレイにしてやれ」
藤五郎を渡された文は手を引いて彼を風呂に入れようとして……少し立ち止まって壱心の方を見る。
「どうした?」
「……ごめんなさい」
「ん? あぁ、気にしてないから。気にするな」
門からの出入りは許されている壱心だが、家の敷居を跨ぐことを拒絶されている壱心は自宅にある風呂に入ることも出来ない。それを心苦しく感じた文の謝罪。藤五郎は文の謝罪を嫌がる自分を無理矢理風呂に入れることに対して行ったものだと勝手に解釈して更にわめくが、壱心は気にした素振りも見せずに蔵に向かって歩き始めた。
「ごめんなさい……」
別に気にしないでいいと言ったのにもかかわらず、文はもう一度謝罪して風呂に自由に入れない壱心を前にして心無いことを言う藤五郎を叩いて家の奥へと消えて行った。
(……いや、山の中でトレーニング後に勝手に川の水引いて五右衛門風呂に入ってるから本当に気にしないでいいんだが……何だ? 憐れまれる程匂うのか……?)
一応、袖の匂いを嗅ぐが何ともない。当人だからか……? と思うがここに来るまで奇異な目で見られたこともないので普通に風呂に入れないことだけを謝罪しているのだろうと判断した壱心。
入浴はしているが、そのことについて言っても特にいいことはないので伝えないが、勝手に申し訳ないと思っている文に何となく罪悪感を覚えつつ壱心は今日も日課のメモ帳と計画書の作成を行ってから眠りに就くのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます