第2話 行動の時
壱心が藩校より福岡藩の家老である加藤司書に連れて行かれてから三日が経過した。
この三日間というもの、生来負けず嫌いの加藤は自身の仕事に全て壱心を同行させた。隔日に定められた藩の仕事以外にも加藤が担う仕事の合間にも壱心を同行させ、問答を繰り返し、納得できない点については壱心の論に対して逐一負けん気を起こして反論してきた。それに対し壱心の方はまだ微妙に自分がどういう存在であるか悩みながらもそれに応じて再反論するという日を暮らしていた。
しかし、加藤から繰り出される質問と詰問、そして諮問のお蔭で壱心の方も一般的に考えるであろう予想範囲外の思考をする羽目になり、それにも応じる中で入れ知恵以上の広い範囲の話し合いの結果、壱心が自分で物事を考えて話していることに信憑性が生まれた。
その結果、この詰問にも似た三日間は加藤から壱心の能力と才覚が早期に認められることに助力することになり、壱心はこの日ようやく城の外郭付近にある侍屋敷の自宅へと戻ることになったのだ。
(ふぅ……語ったのはいいことだけど問題が多数生まれたな……売り言葉に買い言葉とはいえ、言ってしまったからには責任もってやらないと。)
そしてこの三日間の問答の末に得た信頼から彼に与えられた使命を思い出して壱心は溜息をつく。端的に言うのであれば彼は藩に中央の情報を伝えるスパイになるという密命を帯びて脱藩することになったのだった。
この時代における脱藩は勿論、重罪である。本来果たすべき使命である藩主に仕えるという仕事を放り出して藩外に出るというのだから当然だ。特に馬廻組は藩主に直々に仕える立場にあり、藩主が信頼する存在と内外に知られている。そんな家の長男が逃走し捕まったとなれば死刑もあり得るし、例え捕まらなくとも実家の家名断絶という事態に陥ることもある。少なくとも、悪い噂が立つだろう。
つまり通常であれば脱藩というものは家族に迷惑をかけ、自らも藩籍を抜けて浪人になるという厳しい環境に陥るということだ。
馬廻組ともなれば知行取りで知行地に行けば殿様扱いされるため、好き好んでその地位を放置する者は余程珍しく、本人に目的達成のために全てを捨て去るほどの覚悟があるか、余程実家に力があるかでなければ抜けることはないだろう。
(まぁ今回は加藤さんが黒田さんのところに言って支度金の用意と実家の家名断絶はないように取り計らってくれるみたいだからいいけど……香月家が俺の知る歴史に出てこなかったのは本来なら俺が脱藩して、外で捕まって見捨てられたからかもしれないなぁ……)
そんなことを考えながら自宅へと向かっていると次第に松の木が掛かった門が見えてくる。その石柱の門前には既に加藤から連絡が行っていたのか、香月家の直参家来として門番を務める弥兵衛の他に弟である利三と藤五郎、そして妹の文が石柱の傍で壱心を待ち受けていた。
「兄さまが帰って来たよー!」
「おかえりー!」
「おかえりなさいませ」
壱心を見るなりそれぞれの反応をする弟妹たち。利三は家の中に勢いよく飛び込み兄の帰りを家中に知らせる。藤五郎は壱心に抱き着き、文は門の傍から微笑みかける。
「ただいま」
言いながら何故かどこかしらに違和感を覚える壱心。しかし、それも程なくして霧消すると藤五郎を抱え上げながら自宅の敷地に入る。
「兄さんお帰り。父上が待ってるよ」
「お、次郎長ただいま。そうか……すぐ行くよ」
庭ではすぐ下の弟である次郎長が上半身裸で木刀を持って素振りをしていた。そして用件を伝えるとまた鍛錬に意識を集中させる。壱心の方もそこまで次郎長を気にかけることなく父である太一がいる場所に向かう。彼が自宅に居て誰かから待つと伝えられた場合、場所は決まっており父の仕事部屋となっている。
そこに入ると既に父は待ち構えていた。彼は壱心の姿を認めると静かに書物を畳み、壱心の方を見て落ち着いた重低音の声音で告げる。
「来たか。報告を」
「はい……」
壱心は太一に促されるがまま加藤と話したことの内、語ってもよい範囲のみについて報告を開始する。父である太一は大柄な武士であり、戦うには向いている人物だが少々直情気味であり、正論でも自らが受け入れられることでなければ激怒する可能性が非常に高いからだ。その性格を彼の上司である加藤も非常によく理解しており、壱心にもよく言い含めていた。
しかし、語ってもよいこととその他に壱心は語らなければならないことも加藤から預けられていた。そしてそれは彼の父にとって到底受け入れがたいものである。
「……北は過激派の燻ぶる長州、西に不気味に沈黙を貫く肥前、東では躁状として何やら蠢く土佐、そして南には強大な力を保有する薩摩という我が藩の立地。また夷狄が国難を呼び、民衆が混乱する中で私は恐らくこれから政治の舞台となる京へ上洛せよとの命を受けました」
「それは藩命でか?」
「はい。しかし、いいえでございます」
その返事に太一は勘付いた。報告を聞いている間つぶっていた目を開き、眦を吊り上げると静かに、押し殺した声音で壱心に尋ねる。
「壱心、貴様脱藩せよとの命を受けておめおめと引き下がって来たと言うのか?」
「父上、これは必要なことで……」
「ふざけるな! 香月の家名、五星の家紋を何だと思っている! お前はこの家を背負って立つ男だ! それを家名断絶にもつながる大罪を犯そうとは不心得者め!」
「その件については既に話がついています。落ち着いて聞いてください」
激高する太一に対して壱心はあくまで冷静だった。その様子に太一はいつもと異なる並々ならぬ意思を感じて静かに押し黙って話を聞く。
壱心の話が終わってからしばらくの間、気まずい雰囲気が流れた。しかし、壱心から伝えるべきことは既に伝えたのだ。後は太一の反応を見て説得を行うのみ。壱心は太一の反応を待った。
「……わかった。だが、少し待て」
「ありがとうございます」
まさかこれほどまでにすんなり受け入れられるとは思っていなかった壱心は驚きつつそれを押し殺して謝辞を述べ、頭を下げる。しかし、感謝されるにはまだ早いとばかりに太一は壱心を睨みながら首を振った。
「待てと言っただろう? 条件がある。まず、
「わかりました」
「まず」ということはまだ条件はあるということだが、ここはすんなり受け入れて交渉の姿勢を表しておく。どのみち加藤から上、藩主や他の家老たちに脱藩志士を出してその援助を行うという進言を行い、許可をもらうにはそれなりの時間がかかりそうなため、問題はない。しかし、太一から告げられた次の条件は壱心にとって厳しいものだった。
「そして、これから当家よりお前に対する支援を最低限以上には行わない。これは例え藩命であったとしても家を捨てると決めたお前に対する罰と、お前がこの家を出るにも外部より疑われぬ状況と理由を作るためだ。俺が言葉を弄すのは得意ではないためはっきりと言うが……今日よりお前を長男として、次期家長として扱った態度は終わりにする」
「……わかりました」
「外聞が悪いため、しばらくはお前を蔵に住ませ、そして問題なしと判断すれば本村へ送る……が、くれぐれも民草に対して狼藉をはたらくことのないように」
「はい」
厳しい条件をあまりに素直に受け入れる壱心に太一の方が話をきちんと理解しているのか訝しく思い、眉を顰めて壱心に再度確認を取った。
「壱心、俺は本気で言ってるんだぞ? お前はそれでいいのか」
「はい。国難に際して全国的に困窮している今、香月家においても家を継がない恩知らずにただ飯を喰らわせておくわけにもいかないということ、しかと理解しております」
国難。幕府によって金含有率の低い万延小判が鋳造され、また在郷商人が利益追求のために外国へモノを売りに商品を直接港に持って行くことで国内では物価上昇が進み、経済的混乱を招いている現状。
そして、それらの上に立つ武士に関してもそう楽な暮らしをしているわけではない。それを思い出しつつ壱心はそう答えたが、太一の求める答えはそれではない。いや、状態的には合っているのだが、昨日までの壱心の反応からしてあまりに利発な回答に逆に困った。
「……壱心、お前頭をぶつけたりでもしなかったか?」
「……ぶつけはしましたが……大丈夫です」
やはりぶつけていたのか。いや、しかし常識的に考えてその程度でこれほどまでに変わるものか。太一は色々と思うことはあったが一先ず飲み込み、壱心が音を上げるのを待つために処遇を告げた。
「……いや、何でもない。少し冷静になる必要があるやもしれん。よくよく考えるように。考えを改めるようであればすぐに申せ」
「はい」
しかし、ここは有言実行。太一だけではなく香月家として壱心への冷遇がこの日より始まるのだった。
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