大日本帝国 -綴錦-
古人
幕末の動乱
第1話 目覚めの時
「痛ぁ……?」
「大丈夫か、壱心?」
……どういうことだろうか。
自らが発したと思われるいつもより高い少年の声に、そして自らの視界にあるすべてのモノへの違和感を込めて壱心は内心でそう呟き首を捻った。そんな様子を見た目の前の和装の少年も訝しげに彼を見返す。
「壱心、どうした? 捻ったか?」
「……いや、何でもない」
「何でもないなら早く行くぞ。全く……せっかく先頭で戻れるってのに、これで誰かに抜かれたらお前のせいだからな」
そう言って前を行く青年。彼の名は新兵衛だったか。痛みと共に浮上してきた意識では初対面であるはずの日焼けした大柄な青年。彼を前にして壱心は見たこともないのに相手のことをよく知っているという奇妙な意識を持ちつつ、転ぶ寸前まで自身が行っていた行為である町内の走り込みに戻る。
(……ここは、どこだ……? 古い町並みに道はアスファルトじゃなく、土。行く人は和服……だよな……いや、それよりもこの視界の高さ。俺はどうして……? 視力も回復してるし……そもそも、俺は一体……?)
訳も分からないまま走り続ける壱心。急に降って来たとしか言いようのない自我と今まで生きてきた自我が混在しており思考がまとまらない。走り方とてこれまでの自分が行っていた手と足を交互に出すものではなく、同方向の手と足を同時に出すナンバ走りであるという事にも戸惑いを覚えながら今の体に染み付いた着物が解けない走りを続ける。
現在、これが自我であると主張する記憶は体の運用に違和感を覚え、同時に現状の認識も曖昧な状態だ。だが、その記憶は思考を動かす主導権を握っているだけで生の実感がないことから混乱を避けられない。その上、前者の降って来た意識の中には知識の記憶はあれども自分が何者であるかという記憶がなく、自分が誰だか明確には思い出せないのだ。
ただ、分かるのは自分がここよりも未来の日本にいたという事実。いや、その他にもその当時に生きる日本人としての一般教養が脳内に詰め込められている。
しかし、それとは別に福岡藩黒田家に仕え、知行地を与えられ直礼を許される家格にあった馬廻組の1つ、香月家。その長男の香月壱心としてこの時代に生きて来た知識もしっかりと根付いており、身体に染み付いた一般常識はこちらにある。
(待て、なら意識の摺合せを……今は俺が覚えてる限りだと今は万延元年……っていつだ? 歴史として覚えてる西暦に直したいんだが……確か、藩校でこの前の3月に大老の井伊直弼様が桜田門外で弑されたって……つまり、少なくともこれが俺と同じ歴史軸を歩んでいるとすれば今年は1860年か……?)
走りながら現状を何とか把握しようと努める壱心。ほぼ思考のリソースを自らの身体の異変と現状の把握のために使用しているが、走るルートは体が覚えている。そして体の運用には違和感もない。だが、共に走っていた青年、新兵衛の方は壱心に対する違和感を多分に抱いていた。
「おい、壱心。本当に大丈夫か? 何か走り方もぎこちねぇしよぉ……せめて、前見て走ろうぜ?」
「あ、あぁ……悪い……」
「
「……さぁな」
新兵衛は壱心の思考を別方向に持って行くことで気を紛らわせようとしたのだろう。しかし、壱心の気持ちはこれまでの生活の中で迎えようとしていた更なる問題の方に思い当ってしまい、安らぐどころか更に考え込むことになってしまった。
気付けば、壱心と新兵衛の走り込みは終了していた。現在は先生が大事な話があるため準備が出来たら呼び出すと言われ、壱心と新兵衛は別室に分けられて待機を命じられている。その待機時間に壱心は正座をして黙っていた。
走っている間はずっと考え事をしていたせいか、体の疲労感はそれほどない。しかし、頭の疲労感は大概なものだった。
(……タイムスリップというやつか? ちょっと定義がよくわからんが……俺は筑前、福岡の香月壱心とかいう小僧の身体に意識が飛ばされたらしいな。いや、統合されたというべきか?)
目覚めた意識とこれまで身についていた意識の摺合せを行った結果、彼は幕末の福岡藩で意識を覚醒したらしい。幸運なのは武家に生まれていることだろうか。馬廻組といえば士族の中でも知行取りで上士と呼ばれる存在だ。尤も、黒田家の馬廻組は中級士族としての位置づけになっているが、それでも身分がしっかりとしている家を出自とすることは今後の行動に間違いなく影響してくると思われる。
(さて、次に問題だが……幕末。まず間違いなく戦争に参加することになる……その前に。俺のいる派閥は筑前勤王党なんだよなぁ……5年後に乙丑の獄で処罰されるじゃねぇか……)
しかし、武家の子どもといえども幸運ばかりではないようであると壱心は内心で嘆く。幕末の士族に降りかかる問題はキリがない。明治維新の最中に戦争が起きて戦ったのは勿論だが、動乱の最中で各藩も藩論を決めかね政戦が繰り広げられてそちらでも多数の血が流れた時代だ。そんな中で、壱心が所属している筑前勤王党は藩主である黒田長溥に謀反を疑われて潰された派閥である。
更に言うのであれば、壱心の父である香月太一は筑前勤王党の中心人物である加藤司書にかなり近しい人物だ。処罰は免れない位置にある。
(普通に考えて謹慎。最悪、あの親の性格とこの時代の感覚的に抗議のために切腹して諌死してそうだな。処罰されて切腹したんだからお上からも放置され……一家全員、当主が死んだことで……)
「壱心、来なさい」
「っ、はい!」
いずれ訪れるであろう近しい現実を妄想することに没頭していた壱心だが、廊下から新兵衛を伴ってやって来た先生から声をかけられる。少し慌てて壱心が立ち上がると師範は窘めるような視線を壱心に向けて落ち着くように告げた。
「壱心、これからお前は加藤様がお待ちになっている部屋に行くんです。落ち着いて、くれぐれも粗相のないように心掛けるのですよ?」
「はい」
(――――っ! 考えがまとまってないのに、いきなり本丸が来た! 展開が早すぎるだろ!)
表面上、即座に立て直しつつ驚愕する壱心。迫り来る現状についても言いたいことはあるが、集中していたとはいえ声がかけられるまで気付かなかったということも彼にとっての驚愕の事実だ。確実に周囲の気配に対する察知能力についても鈍っている。近い将来に訪れる周囲の暗い未来について思考を馳せていたところに、自身の弱体化。とんだ爆弾が放り投げられた気分だ。まだ何も対策を考えていない壱心は内心の焦りを禁じえなかった。
「……落ち着いてますね、いい心がけです」
しかし、壱心の動揺は師範には気付かれなかったらしい。寧ろ、師範からすればこれまでの壱心にしてはやたらと落ち着いているという気がして奇妙に感じた。
だが、それでも壱心が慌てふためいて藩の重臣である加藤司書の前で粗相をしてしまうよりもずっと楽でいいと気にしないことにする。
「加藤様は既に部屋でお待ちになっている。新兵衛を先に、壱心を後にして入りなさい」
「「はい」」
無駄口は一切叩かない。様々な規定で禁じられてはいるが、ある程度の裁量で無礼討ちが許されている時代であり、体罰は日常のことだ。また、コネクションが非常に強力な時代で身分も年齢も低い壱心が粗相をすれば多方面に迷惑が掛かる。当然のことながら、自分のこれからにも影響してくるのだ。
壱心がそんなことを考えながら緊張しつつ師範が扉を開けたところで新兵衛が先に入り、頭を下げる。
「失礼します。安川兵頭が次男、安川 新兵衛です」
「失礼します。香月太一の長男、香月 壱心です」
「入りなさい」
室内にいる加藤の命じるがままに入室する二人。師範に言われた通りに入室して正座すると件の筑前勤王党、その穏健派であり福岡藩執政の加藤司書がこちらにあまり緊張させないように、しかし決して侮られることのないように毅然とした態度で二人を迎え入れた。
まずは、加藤は二人が緊張しているだろうということで比較的明るい口調で、軽い話を始めた。
「さて、君たちのことは古賀先生から聞いているよ。優秀な子たちらしいね? 特に安川の子は頭がよく香月の子は武芸に優れると」
「お褒めの言葉、ありがとうございます」
新兵衛の返事に合わせて頭を下げる壱心。しばらくの間、軽い世間話のような会話が繰り広げられることになるがそれも程なくして加藤の方から本題に入る。
「……ところで、君たちは今、この国の危機についてどう思う?」
「挙国一致の上、攘夷を断行すべきかと」
聡い新兵衛は加藤の抽象的な質問を近年の欧米の接近による国内の混乱のことだと素早く判断して端的にそう答えた。加藤は頷くも表情を変えず、意見を求めることもなく今度は壱心に視線を向ける。
「君は、どう考える?」
壱心に向けられた質問。ここは無難に返すのがこの時代の処世術としては正解であり、壱心が元々持っていた意識もそれを推奨する。
しかし、壱心は無難な答えでこの場を流そうとはしなかった。緊張で逸る鼓動と乾いた口の中を自覚しつつ切り出す。
「……申し訳ございません。少々長くなるのですが、お時間はよろしいでしょうか?」
「……ほう?」
壱心の謝罪の言葉に建前としての意見すら言えないのかと表情には見せない落胆の色を生み出した加藤だが、続く言葉に思わず表情を変えて声を漏らした。
「構わぬ。申せ」
(……考えはまとまってないけど、何回も機会が回って来る訳じゃない……どうせ何もしなければ乙丑の獄の中で磨り潰されるんだ……最悪、勤王党の過激派に流れて脱藩の可能性を視野に入れてここは賭けに出る……!)
夢か幻かは分からないが、どうせ目の前に自身のこれから……ひいてはこの国の行く先を変えるチャンスがぶら下がっているのだからと、壱心は乾いた口に無理矢理唾を生んでそれを飲み込むと意を決して加藤に告げた。
「愚見を申しますと、国難を乗り切るために条約改正に向けての攘夷は必要不可欠ながら現時点における攘夷は例え挙国一致しても不可能かと。富国強兵に努めながら時勢にあった対策を用いてまずは欧米諸国と対等になることを目標に掲げて国を挙げて取り組むべきと思います」
「ふむ? 貴様はこの国を、幕府を愚弄すると?」
加藤の軽い口調が消え、壱心に対する威圧感が増す。齢24にして家老に任じられた加藤は今、30歳という油の乗っている時期である。文武両道で、史実においては腕っぷしにおいて藩内随一ともされていた彼の威圧に対し壱心は一歩も引くことなく告げる。
「いえ。日本国は潜在能力において列強にも勝る非常に優れた国家であります。また、地理的にも非常に恵まれている土地です。しかしながら、先の清とイギリスの大戦を見て分かる通り現時点においてこの亜細亜は欧米、列強国に遅れているということははっきりと申し上げたいと思います。これはこの国が受け止めなければならない純然たる事実です」
「……続けよ」
加藤の低い声が室内に響く。隣にいる新兵衛は壱心の変貌に内心で冷汗どころか現実に背中に汗を滂沱の如く流し、顔色を悪くして押し黙っている。
「このような事態において、諸藩が各自で対策を講じ、己が要求のみを根拠に攘夷決行を幕府に迫ったとしても現実に条約改正は不可能、それどころか清国の二の舞になり大いに国益を損じます。これを防ぐために、現時点においては諸国に融和的な対応を取り、相手に利用される態で実を取り、列強を利用することでこの国を富ませ、そして列強と対等の物言いが出来る立場に立ち、完全自律することが我が国にとって必要なことだと愚考いたします」
「…………まるで清国を見て来たかの如く言うのぉ……」
壱心が意見を言い終えたところで加藤は溜息をもらすように苦笑する。それによって室内を取り囲んでいた重苦しい雰囲気は一気に霧消した。しかし、その緩んだ空気に鋭く加藤は眼光を走らせて壱心を睨む。一瞬生まれた場の気の緩みから相手が立て直らない内に加藤は切り込んだ。
「して、その考えは誰から聞いた? ことと次第によってはお主ごとそやつを斬らねばならぬ。隠すと身のためにならぬぞ?」
「……今のはすべて、私の考えでございます。信じられぬのであれば仔細を詳らかにし、執政様の問いに答えることを以て疑念を晴らしたいと思います」
「ほう、なれば。安川の子よ、古賀に壱心は私が預かったと伝えておけ。壱心は私と共に参れ」
視線で新兵衛を下がらせる加藤。何とか表面だけ冷静に取り繕うことに成功した新兵衛は彼の親友の身を案じるもここでごねることで加藤の機嫌を更に悪くしてもよくないということで速やかに退室する。それを見届けた加藤は立ち上がり、壱心と御供を伴って自らの邸宅へと引き返していくのだった。
そしてこれが、これこそが幕末期における雄藩、福岡藩が史実とは異なる方向へ舵を切り軍事大国とは趣の異なる海洋国家日本を生み出すにあたっての最初の岐路となった。
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