第3話 雌伏の時
さて、父親である香月 太一から半絶縁を言い渡された壱心だが、彼はその日の午後から蔵に私物を持っての移動を命じられていた。
その移動後、壱心は辺りが暗くなっても月明りを頼みに倉庫の中で彼の自室から持ってきた机を使い、一心不乱にメモを書いていた。
(加藤様のところで書いていたメモの続きだ……覚えている分だけでも全部メモしておかねば! ここからの30年、特にここ10年は吐き気がするほど目まぐるしいイベントラッシュなんだからな……!)
壱心が目覚めた万延元年。西暦で言うのであれば1860年。史実通りに行けばここから10年足らずで幕府が滅びて日本の体制が一新されることになる。そしてその新体制は確実に人手不足であり、新体制に至るまでに功績を立てることが出来ればこれからの国政に対して大きな発言権を手に入れることが出来るのは間違いない。その功績を立てるに当たって大事なことは情報だ。
そして、その功績をなかったことにされないために必要なことが後ろ盾だ。壱心の場合は自分の所属先であり、暗躍するに当たって事情を知っている福岡藩がこれに当たり、これを守るために今から10年間を費やさなければならない。
尤も、藩が強力になり過ぎれば自分の自由が縛られるためその辺に関してはバランスを調整するつもりだが。
それはさておき、今はメモ書きの時間だ。
(忙しく時が流れ、先々のことについて物忘れする前に書き留めねば……幸い、こちらの蔵にも学校に持って行くための紙がたくさんある。日時と主要な人物、それから簡単な経緯を書くだけであれば150枚もあればギリギリ足りることだろう……)
細やかな文字で日時・場所・主要人物・出来事などをぎっしりと書き詰めていく壱心。そこに使われている文字は主に現代日本で使われている文字であり、時折まだこの時代の日本では主流ではないアラビア数字等を用いて日本語の当て字をしたり、主観による認識(現代日本で一昔前に流行ったギャル文字のようなそれ)を用いた暗号などを用いたりして他者がパッと見ただけでは理解できない微妙な暗号文としている。
その最中に壱心はふと思った。
(……ギャル文字を使っていてふと思ったが、これを新政府軍の暗号に織り交ぜて使ったらいったいどうなるのだろうか……未来の学者は真面目な顔でギャル文字の議論をして、思春期の子どもたちは格好つけてギャル文字を使うのだろうか……? いかんな、くだらん。)
どうやら少々疲れてきたようだと途切れた集中力の合間に侵入してきたくだらない思考に苦笑して休憩を入れることにする壱心。完全に集中力を切らすと蔵の外から虫の音やカエルの鳴く声が聞こえてくる。
……そして、それに交じって人の気配が蔵の外に感じられた。随分と軽い音で、恐らくは子ども。意識はこちらではなく蔵の扉に向いているようで入るか入るまいか悩んでいるというところか。壱心は集中している間には気付かなかったという点に苦みを感じつつ思考を切り替える。
(ふむ、この辺りもやはり鍛え直す必要があるな……時間がないため少々無理をする必要があるが、幸いなことに冷遇処置と脱藩ということで多少の奇妙な行動を取っていてもおかしくはない。もっと言うのであれば入会地への立ち入りは許可されているからな。)
近々にやらなければならない今後のことに思考を差し向けつつ蔵の外にいる相手に何らかのリアクションを取らねばならないと立ち上がる壱心。気配を殺して扉を静かに開けると外にいた彼女は驚き、目を真ん丸にして壱心を見上げた。
「文か」
そこにいたのは香月家の長女であり、壱心の妹である文だった。彼女は利発そうな、愛くるしい顔立ちを固くし、眠さを一切感じない表情で静かに壱心に告げる。
「兄上……お夜食でございます。ご内密にどうぞ……」
壱心の妹である文がこっそりと持って来たのは幾つかの小さなおにぎりと屋敷の裏で栽培している野菜で作った漬物だった。どうやら母親と共謀してそれを作って父である太一にバレないように壱心に持ってきたらしい。それを受け取った壱心は何はともあれひとまず礼を言う。
「ありがとう。ただ、これがバレると父上に怒られるぞ? 俺のことは心配いらないから明日からはこんな危ないことは……」
「兄上、お尋ねしたいことがございます」
壱心が言い含めようとするのを遮って文は強い意志の宿った視線を壱心に向ける。この握り飯たちは差し詰め情報料と言ったところか。そんなことを思いつつ壱心は屋敷の方をちらりと見て文を少し蔵の中に入れつつ尋ね返す。
「何だ?」
「父上と何があったのですか? 兄上は何故、家を継がぬと決めたのでしょうか?」
間に何も入らない、真っ向から来た質問だった。文は尚も続ける。
「もし、武芸が達者になられてこの家を小さく感じたという理由でしたら文は強くお諫めいたします」
文の発言は昼間、太一が壱心を冷遇すると決めた後に起きた稽古での出来事を踏まえての発言だろう。
馬廻組として例にもれず、藩内でも武芸者として知られている太一を相手に壱心は互角、いやそれ以上の戦いを繰り広げたのだ。厚遇終了発言から察する通り、太一が壱心の覚悟を揺るがせるために行った外の厳しさはこんなものではないという殊更激しい稽古。それを正面から受け止める壱心の姿は先日までの力があってもどこか精神的には抜けきれない様子とは確実に異なるものだった。
そんなこれまでと様子の違う壱心の姿を見て、文は壱心の調子に乗った様を父に窘められてこのような蔵に謹慎のような状態になっているのではないかと危惧したのだった。そして、それを確かめるために夜半になって壱心に真意を尋ねるために蔵にまで来たのだが、文の予想に反して壱心は首を横に振った。
「文、家を継がないと決めた理由はそれじゃない。……そもそも、俺はまだ調子に乗れるほど武芸を修めていないからそれはない。安心していいぞ」
嫌味か。文の壱心を見る目が険しくなる。しかし、壱心は嫌味に感じさせるような表情どころかどこか苦いような顔をしており誰がどう見ても現状に納得がいっていないという表情だったため、文は壱心の発言を渋々だが信じることにする。
そうなるとどうして壱心が家を継がないということになったのか、猶更気になるところだ。
「でしたら、何故……兄上はお家が嫌いになられたのでしょうか……?」
心配げな表情で、目を潤ませつつ気丈に振舞う文。そんな彼女に対し、壱心はいかなる情報も漏らすことは出来ないと自らに言い聞かせつつこれくらいはいいだろうと一言だけ呟く。
「家……この国のためだ」
「兄上……?」
壱心の呟きは文にははっきりとは聞こえなかったようで訝しげな視線が明確な答えを求めて壱心に突き刺さる。しかし、壱心はこれ以上言うことは出来ないと軽く目を伏せて首を横に振った。
「文、もう夜遅い。寝所に戻りなさい」
「兄上!」
「握り飯、ありがとう。それじゃ、お休み」
少しだけ蔵の中に入れていた文を半ば強引に外に出して問答を打ち切る壱心。風、そして虫の音に紛れて文の小さな抗議はしばし続いたが効果がないと悟ると静かに引き返していった。それを静かに見送ると月明りが照らす机の上を見て壱心はその横に冷たくなったご飯を置く。
「……やらないとな」
今の意識が浮上してからは微妙な距離で曖昧な間柄だった家族。周囲に相談することもなく誰も壱心の内面が変わったことについてはっきりと気付いてはいない。この
しかし、目の前にある小さな冷たい握り飯は意識が切り替わってしまった壱心にどこか温かみを覚えさせ、この奇妙な状況においても家というものを意識させるものだった。
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