8月6日9時4分
青色魚
第1話
その日は朝からなんだかやるせなかった。
昨日遅くに寝たからだろうか。ニュースをつけるだけつけて流し見、トーストをもそりもそりと食べ進める。どこぞの女子学生が線路に飛び込み自殺したとニュースは言っていた。目が覚めているようで覚めてない、夢と現実を行き来しながら電車に乗る。
もう慣れてしまった乗り換え。車掌のアナウンスも今日はどこか眠そうだ。電車通学も座れて眠れるなら悪くない。特に端っこの席はもたれ掛かることの出来る最高の席だ。ストン、と意識が落ちていく……
気が付くと、見慣れない駅にいた。寝過ごしたのだろうか。遅刻確定。けど今日は夏休みだ。夏期講習には多少遅れてもいい。そもそも優等生でもないのだし。
車両には誰もいなかった。もうみんな降りたのだろうか。ここは終点?やけに静かだ。蝉時雨も聞こえない。
そしてその中に一人、ホームに佇む少女がいた。年は同じくらいだろうか。白いワンピースに、麦わら帽子。そして透き通るような白い肌だった。
なんと呼びかけていいのか分からなかった。正直見とれていたのだ。この近くで見ない顔だけど、一体どこの高校だろうか。
「あなた…」
すると向こうの方から声をかけてきた。こちらを見たことでその目の透き通ったのも見ることが出来た。シンとしているその場に凛としたその声はよく響いた。
「…高校生?」
「…うん」
呟くように返事をする。彼女は微笑を浮かべて、そう、とだけ返した。
少し話してみようか。そんなふうに気持ちが働いて、電車から降りる。元より遅刻は確定だろう。もう学校のことなど忘れていた。
「ここら辺に住んでるの?」
疑問は溢れた。
「さあね」
彼女は素っ気なかった。
「何年生?」
「三年生」
「同じだ」
微かに笑う。彼女は、何か言いたげな顔をしていた。
しばらく、静寂がその場を包む。日差しはあるのに暑くない。こんな夏なのに蝉も鳴いていない。まるで世界に、ふたりきりになったようだった。
「…私ね」
ぽつりと彼女が語り出した。
「…志望校、○○大だったんだ」
彼女が言ったその大学は、ここから近くの名門の国立大学だった。
「正確には志望するようになった、が近いんだけどね
親が学歴にうるさい人でさ」
彼女の話を黙って聞く。なぜかそうすべきだと分かっていた。
「…部活は高二で引退でさ。三年生になってから急に勉強一色で、嫌になっちゃうよね。朝から晩まで机に向かってて、もうそれってなんの意味があるのかな、って」
蝉の音もない。遊ぶ子供たちの声も聞こえない。ただ二人だけのホームで、彼女は真っ直ぐに見つめてきた。
「…私たちって、一体何なんだろうね
将来のため、ってことで将来使うか分からない勉強をして
ワガママ言わないの、って子供扱いされて
もうきちんとしてよ、って大人扱いされて。
恋をして、友達と遊んで、部活をして、行事はたまにサボったりして。
そんな時代、きっと今の高校生しかないんだよね」
だんだんと彼女が何を言っているのかわからなくなってきた。それどころか目の前の彼女を見ることが、できない。
「…きみは、どうか迷わないで
勉強でも、部活でも、恋でも、遊びでも
迷わず一直線に進んで
それが出来るのが、若さという才能だから」
彼女の顔は見ていない。が、その時彼女は悲しそうに笑ったような気がした。
そして瞼が少しずつ落ち、視界が消えた。
目を開けると車掌が次の駅を告げていた。学校の最寄り駅だ。急いで降りる準備をする。
寝ていたのか、と服についたよだれを見て考える。何か長い夢を見ていたような、そんな心持ちだった。どんな夢を見ていたのかは、朧気にしか記憶にない。
また慣れた改札、11番出口、通学路。高校は坂の上にあった。毎朝これを登るのは憂鬱だ。加えて蝉のなく暑い季節だ。ぽつぽつと汗が額に滲む。
ふと、例の夢のことを思い出す。なんの夢を見ていたんだっけ。誰かと話している夢だ。夏とは思えない、静かで白いホーム。夢であったかも分からないほどの幻。けれど確かに、そこにいた。彼女に会った。
何を話していたんだっけ。彼女は誰だっけ。俺は、僕は、私は……
「きみは、どうか迷わないで」
どこかから声が聞こえた。それと同時に、カバンは放り投げていた。
走れ、走れ、走れ。理由は分からない。僕を突き動かすこの衝動が、僕を流れるこの熱い何かが、止まらない。だから走れ、走れ、走れ。
大人扱いされなくても、子供のように甘えることが出来なくても。嫌な勉強を強いられても。恋で上手くいかなくても。たまに部活が嫌になっても。親がうるさくても、先生が嫌いでも、全てが嫌になっても、何がなんでも。
走れ、走れ
生きろ、生きろ
自分を突き動かすそれを忘れるな。
何でもできる、何にでもなれるその力を、若さを無駄にするな。
思い描いていたヒーローにはなれない。思うように行かない。嫌いな大人たち。将来への不安。そんなもの知るか。僕らはまだ人生の四分の一も生きちゃいない。重圧も責任も、まだ必要ない。きっと僕らはまだ青い。子供なりに、未熟なりに、この春を楽しむしかない。
それがきっと、僕らの青春というものだから。
8月6日9時4分 青色魚 @bluefish_hhs
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