第 7話 ある村の噂話

 日も落ちてきて涼しさは一段と増した感じがする。ハヤトは心持ち急いで町にたどり着いた。町の灯りにほっとさせられる。明るい青空は急ぎ足で群青に取って代わり、遥か遠くの空で日の光と溶け合いながら、ゆっくりと夜の領域を広げていた。


 町には活気がある。日が暮れると町の門が閉じられてしまうので、駆け込みで町へやって来た旅人、行商人などでごった返す。ハヤトにとってはこれからが忙しくなる時間だ。主人にドヤされる前に店に戻らなくてはいけない。住み込みで働く食堂「暁亭」へ、町の中心を走る石畳みの大通りを走る。軽やかに先を行く人たちの間を走り抜けていく様はまるで風だ。人混みを走り抜け、大通りから一本入った通りにひっそりとある暁亭に着く。走ってきた勢いのまま、裏手に回る。すぐ隣の建物が迫る狭い路地裏に面した木のドアを開けると、すぐに食堂の厨房になる。外の涼しさとは打って変わって熱気に包まれる。食欲をそそる匂い、ジュウジュウと調理する美味しそうな音、厨房の向こうの客たちの話し声などが一体となって身体を包み込む。この瞬間の気持ちよさといったらなかった。ずっと包まれていたい、そう思ったのもほんの束の間、すぐに店の主人、ハヤトにとっては親方の大きな怒鳴り声が飛んでくる。


「さっさと手伝え、忙しくなるぞ」


 ハヤトはその声を背に、急いで厨房を抜けーその間に厨房にあったパンを素早く口に放り込むことは忘れなかったー表に出ていった。これからの仕事は客たちの注文を聞いて回り、厨房に注文を大声で伝え、出てきた皿を客のテーブルに運び、酒を注いでいくというものだった。食堂兼酒場は、それほど広くない。コの字型の厨房に対面する席は十席程度、木製の頑丈なテーブルは四人席が六組、ぎゅうぎゅうに押し込んでみても四十人程度の広さだった。


 この時間、暁亭はすでにいっぱいだった。腹を空かした旅人から、一杯飲みにきた町に住む者などの話声が店内を満たしていた。客はそれぞれ違っていても、一杯やりたいことを心得ているハヤトは注文などお構いなしに、厨房に吊り下げられた陶器製のコップを引っ張り出してきては、樽の蛇口を捻って酒を目一杯注ぎ込み、とりあえず今いる客の前に置いてまわった。まずはこれが手始めだ。息つく暇なく、片っ端から食べ物の注文を取っていく。メニューなどあってないようなもの。パンに、野菜と鶏肉の煮込みに、ハムやソーセージ、玉ねぎと葡萄酒で煮込んだうさぎのシチュー、生野菜等々、適当に盛り付けてこれもそれぞれのテーブルにまとめて置いていく。取り皿を渡して、あとは皆で好きなだけ飲みながら食べていけるように。特に趣向を凝らしたものではなく、ごくありふれたものであるにも関わらず、店の主人の作るこれらの料理は、どういう訳かどれもとびきり美味しく、そのため町の大通りに面していなくても、暁亭はいつもほぼ満席状態だった。


 酒も、美味い食事も各テーブルを埋め尽くし、いよいよ盛り上がってきた。もう、注文を叫ぶ客の近くに行っても聴き取りづらい。ハヤトがようやく一息できる時間帯に入ってきた。厨房に回り客の視線に入らないところでしゃがんで大きく息をつく。


 賑やかに酒を酌み交わし、美味い食事を口に運び、同じ食卓を囲む者たちと語り合う。暖かな部屋に美味しい匂いと談笑する声が満ちてゆく。ハヤトの一番好きな時だった。彼はまだ十二歳で親元を離れ、ここで住み込みながら朝から晩まで働いていた。寂しいと思うことはあるが、この町から約半日のところにあるハヤトが生まれ育った村では、彼の兄弟が上に五人、下に二人いて食べるのも精一杯で、暮らしはけして楽ではなかった。そんな中、ひょんなツテからこの店の主人が、ハヤトを働き手としてくれないかと請うた時に、両親もハヤト本人も承諾するのにさぼど躊躇わなかった。何より食べることに困らない。子どもには大変な仕事も多く、主も厳しかったが、食べ物だけは十分すぎるくらい食べさせてくれた。お腹いっぱいに食べられる幸せと、故郷の慎ましい食事を思う時のほろ苦いさ。一番好きな光景でありながら、満足に飲み食いできる目の前の客を、どこか冷めた目で見てしまう。ハヤトの中で複雑な感情が湧き上がってしまう。それでも彼は、この店で働けることを心底ありがたいと思っていた。


 ふと、店の奥のテーブルに座る旅商人たちと思しき一団から聴こえてくる鬼という言葉が、彼をもの思いから引き戻した。


 鬼?


 酒が一杯に注がれたコップを両手に持ちながら彼らに近づいて話を聞きにいく。今では昔話のような鬼の話だが聞いてみたかった。自分の知らない土地の話や、噂話が色々と聞けるのも、外からの旅人が多く集まるこの店の面白いところだ。町の男たちがこの店にやって来るのも、外の人間が運んでくる話を聞ききたいということもあるのだ。


 鬼がどうしたって?


 ハヤトは近づきながら耳を澄ませる。その話をしている男の周りには、別のテーブルの者たちも顔を向けるようにして自然と輪になっていた。


「俺が聞いたのはもうひと月も前の話さ。だから今、その村がどうなっているのかは分からないぜ」


「だとすると、もしその後に鬼が本当に襲ってきていたら、今頃もっと大きな話になって、ここにいる皆が知っているはずだろうよ」と声が飛ぶ。


「俺がでまかせ言ってると思っているなら大間違いだぜ。この話は又聞きなんかじゃなくて、この俺が直接その村に行った時に聞いた話なんだからな」


 語気を強めて男は断言する。


「お前のような旅商人に言ってみたところでどうにもならんだろうよ」


 冷やかすように輪の中からさらに声があがる。皆、話半分で、酒の席の良い話題程度にしか考えていないのだ。


「それはそうだろうよ。村人も馬鹿ばかりじゃないだろうよ。村長から王様に繋がる人に事情を伝えたって話さ」


 どよめきがおこる。こんなところで王の名前が出るとは。明らかに胡散臭くなってきた。

 そんな辺境の村で王に話を伝えられるとは、多くの者には思えなかった。


「そのニノべ村なんて、聞いたことがないぜ」


「お前に何が分かる。そもそも辺境に行ったこともないんだから、知るわけないだろう」

 商人も言い返す。


「まあ、待て、もし本当にそうだとしたらいよいよ戦がおっぱじまるってことだ」


 店の中でも特別身につけている物が上等な、この町でも指折りの商人、裏では高利貸しもしているという噂の男が、そのでっぷりとした大きな体から声を出すと、皆がその言葉に注目した。


「あの境の城に王様、魔法使い、とこしえの君、馬駆る部族やら、昔のように大勢の戦士、兵、あの地方の村々から駆り出された村人たちがわんさか集まるってことだ」


 その男は、ハヤトがあまり好きになれない客のひとりだった。ぶよぶよとした大きな体を完全に持て余して独りでは満足に動けないものだから、いつも口うるさくお付きの人に指示して椅子を引いてもらうことから、手を伸ばせば簡単に届くような物さえ手元に持ってこさせるところや、せっかく親方が美味しく作った料理も、ろくに味わいもせずにがつがつと卑しく食べるところや、さらにはその声はどんなに騒がしくてもはっきりと聞こえ、そのつもりがないのに思わず聞き入ってしまうところがハヤトは気に入らなかった。そして、今もまた聞きたくもないのに聞いている自分自身にいらいらしていた。


「つまりだ、それだけの人が集まるってことは、食べるものが必要だ。食わなきゃ戦もできん。暖をとる必要もある。怪我をしたら薬もいる。士気をあげるためには、たまには酒もなくちゃならん。そしてもちろん、武器が大量にいる。ぜったいに折れない魔法の剣や射ってもなくならない魔法の矢筒なんてそうそうないしな。分かるだろう、戦が始まれば商人にとってはデカく儲けるチャンスがくるってわけだよ」


 大声でそれだけ言うといやらしい笑い声をあげ、お付きの者がお追従笑いをするのを見て満足気に何度も頷いた。


 それを聞いた者たちの中には、頷いて賛同する者もいたが、興を削がれたようにぶつぶつも何か言いながらその輪から外れ、自分たちの席で飲み直す者が大部分だった。ここに来る者は他所の話を聞いて憂さを晴らしたいのだ。それが例え、さっきのような鬼が出たという、胡散臭い話であってもだ。美味い料理に酒、そして面白い話を求めてやって来たのに、現実的な話をされては冷めてしまう。そんな周りの様子に気づかない商人に冷ややかな目を送るハヤトだったが、店全体に白けた空気が流れる前に、すかさず賑やかな楽器の演奏が取って代わった。今日、この町に着いた者の中に旅の演奏家がいたのだろう。ごく限られた者しかいないが、街道沿いの町を楽器を携えて巡る者たちがいる。酒場などで演奏してチップをもらうことで生計を立てている彼らだったが、その陽気な演奏で、客の酒や料理の注文を増やせるとあって、店としても概ね歓迎している。場合によっては滞在する間の宿代も持つこともある。ちなみに、演奏家へのチップをどうするかは、話し合いで決めているが、あまり派手にチップをもらうような場合、店の主人も何割か払うように言ってくることもある一方、宿代、食事までつけておきながら、いざ演奏させてみたらどうしようもなく下手くそで、チップを貰えるどころか店の売上に少しも貢献しなかったということで、トラブルは無きにしも非ず……。


 しかし今夜、暁亭にやって来た演奏家は、その巧みな演奏によって皆の会話を引き出し、大いに楽しい気分を盛り上げてハヤトを一気に忙しくさせた。話し声はさらに大きく、それをさらに音楽が被さり、その音で店がはち切れてしまうんじゃないかというくらいだった。


 こんなことはなかなかないぞ


 演奏家たちを恨めしく思うほどハヤトは右に左に大忙しだった。


 それにしても、さっきの鬼の話はどうなったんだろう。親方に悟られないように、隙を見つけてさっき話をした男に近づく。皆から相手にされなかったことで心なしか大人しく飲んでいる。


「さっきの話」


 ハヤトが声をかける。喧騒の中彼の真っ直ぐなよく通る声が相手に届く。ビクッとして俯き加減の男が顔をあげる。その瞬間ハヤトは嘘じゃないと直感した。本当なんだ。本当に鬼がでたんだ。


「その鬼は、どうなったの?」


 子どもが馬鹿にして聞いてるのかと、一瞬むっとした男だったが、少年の真剣な目に動揺する。


 俺が聞いたところによると…、慎重な物言いで男は語り出す。


「森で遊んでいた子どもたちの前に現れた鬼は、その場にいた女剣士に倒されたって話さ」



 その日の深夜。

 客は千鳥足で家路に着き、食堂はガランとしてそれまでが嘘のような静けさだった。椅子やテーブルを動かすギーギー、ギシギシといった音が響く。箒で床の塵を掃き出し、布巾でテーブルや椅子を丁寧に拭いて綺麗にしていく。暖炉にくべた薪がくすぶっている。拭かれた椅子などは几帳面に元の位置に並べなおしていく。床は掃き清められ、テーブルの汚れは拭き取られ清潔に、少しずつ店が整えられていく。ハヤトたち店の者は、眠気と闘いながら手を抜かない。店が繁盛させるには、閉店してから開店までにピカピカの綺麗な状態になっていることが、美味い料理と酒と並んで重要だと、親方はハヤトに何度も繰り返し教えこんでいた。そしてそれが本当だとハヤトもこの頃は分かるようになってきた。分かるにつれて、いやいやだった閉店後の仕事にも身が入るようになってきていた。


「さっきの話、本当かな」


 誰にともなくハヤトはつぶやく。それに親方が顔を向ける。もう一人、住み込みで働くハヤトより年長の少年がそれに応える。


「酔った勢いのよくある作り話さ。そんなことなら、ちょっと前に聞いた、竜の話の方がまだしも本当っぽかったじゃないか」


 あぁ。ハヤトもその話はよく覚えていた。海を越えてやって来たという旅の商人が語った、竜と魔法使いの話だ。その商人は、この地方の誰もその有名な話を知らないことに驚いていたが、その驚きようが、話の真実味を裏付けていた。鬼以上に竜は遠い存在になっていたので、その晩はその話でもちきりになったものだ。商人は、行く先々でその話をせびられ、飲み代はおろか宿代まで出してもらうという予想外の待遇を受けることになり、自分が売り歩く品よりも、竜の話で街道を旅していると半ば自嘲気味に漏らしていたのだ。


「あの話は面白かったね。それに比べたら今夜の鬼の話は中途半端だったかも。でも、鬼の話をした人は本当の事を言ってたと思うな」


「面白くなかったのに?」


「面白いかどうかは関係ないだろ」


「なんで本当だと思ったんだ、お前は」

 やおら親方が尋ねる。


 言葉に詰まる。なんとなくとしか言いようがなかったからだ。無言でいるハヤトを、いつもなら返事が遅いと怒鳴る親方が珍しく辛抱強く、厳しい表情を浮かべて返事を待っていた。いつもと違う親方の様子に余計戸惑ってしまいながらもハヤトは


「話の続きを聞きに行った時の感じで」


 しどろもどろに言った。


 答えになってないと年長の少年は笑い、早いとこ片付けを済ませようと急かされて話はそれきりになった。うまく言えなかったことに恥ずかしい気持ちになったハヤトは、少年の冷やかしの言葉にむしろ救われた思いがした。少年の後を追いかけて外の掃除に慌ただしく箒を抱えて店を出たが、何も言わずに自分を見る親方の怖い顔が心に残った。


 バタン。閉じた店の入り口のドアをしばらく見ていた親方は、ため息をつき、肩を落とした。働いた後の疲れだけじゃない、何かが彼の肩にのしかかっているようだった。彼はもう一度入念に床に落ちた塵が残ってないが見て回った。


「そろそろ魔法使いがやって来る時期になるな」


 親方は誰もいない酒場で独り呟いた。答えは分かっていながら、あえて聞くのは無駄なことだろうか。ハヤトと同じように鬼の話が気になっていた。ただの噂ではないことは、あのハヤトが否定していたことで分かる。ただ、もし本当だとしてもすぐに戦が始まるとは考えていなかったし、そうなったとしても、この町から鬼と人との境と、そこに建つ城までは一週間ほど、延々と歩いていかないと辿り着けないほど離れているから慌てることもない。さっき話題になった村、確かニノべ村といってた辺境の村も、境から1日くらいにあるらしい。しかし、この町と王の住まう都との距離の方が境よりずっと遠かった。鬼が襲来した時にどれだけの早さで王はやって来れるだろうか。そもそも王は屈強な兵を率いて来るのだろうか。魔法使いは何か知っているだろうか。


 親方は自問自答しながら、厨房に入り明日の仕込みをはじめることにした。

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