第8話 兆し
独りの男が降りしきる雨の中、黙々と歩んでいる。フードが付いた外套、左の腰には刀を差している。少し俯き加減で編み上げ靴を静かに前に運ぶ。ぬかるんだ道をものともせず、ゆっくりとだが着実に歩を進める。厚い雲がたれこめて薄暗い。さらに陽が落ちる夕刻に近づき暗さが増してきた。
なんとか間に合いそうだ。その男、サンは少しほっとする。休憩を取る場所まで陽が落ちる前に着くことができそうだ。朝からほぼ休みなく雨の中を歩き続け、さすがに身体が重く感じていた。雨は好きだが堪える。
“馬駆る人”のサンは独りで行動することが大半だった。彼自身その方が気楽で性に合っていると思っているが、実際のところ、彼にしかできない困難なことを多く命じられている為だった。帯刀を許されてからは、他の仲間が寝起きする館にいることは殆どなかった。東の辺境の地だけでなく、遠く西の王都や、許された者だけしか立ち入ることができない、とこしえの君の住まう地へ足を踏み入れるなど、彼らの中では最も多くの、そして遠い地を訪れていた。そんな時はいつも、街道を旅する者に許された護身のための小剣だけを携えて、彼が何者であるかを示す刀は持つことはなかったが、今回は刀を差していた。人と鬼の地の境に行くことになるのだ。
辺りは徐々に暗くなり、雨で見通しが悪く、険しい山道を進んでいくと、前方にかつての山小屋の名残りが視界に入ってきた。普通の人なら見通せない距離を彼は見ることができた。一族の中でも群を抜いて遠くを見ることができるサンは、他の人とは違う力を多く持っていることで、単純に羨ましがられたり、恐れられていた。
サンの身体は朝から雨の中を歩き通したことで、すでに冷え切っていた。まだ秋が深まる前だったこともあり、それでもまだましだと思える。雨はますます強まり土砂降りといった感じで、辺りは真っ暗だ。
2日前、彼は王国の最東の集落を後にしていた。今でこそ約50戸ほどの家が点在する小さなものだったが、かつてはもっと大きな、町と呼べるような所だった。そこはかつて、鬼の侵入を阻む境城を後方から支える物資が集まる集積地として重要な役割を果たしていた。王国を東西に貫く街道の東の終着点であり、ひとたび鬼との戦が始まれば、この地一帯を治める“馬駆る人”の領主と盟約を結んだ各地の村々、町から戦に駆り出され人々が集結する地であり、戦をする上で必要な食糧、武器などが集まるところであった。そこから城までは山道になり、いくつかに分かれて南北に伸びる山の峰や崖に築かれた城壁の支城とも出城ともいえる各所へと2日程で着くことになる。そんな重要な地だったが、鬼との戦から70年余りが過ぎ、戦以外に人の訪れる町ではなかったために、あっという間に活気を失い、人の往来は途切れ、住む者も町を離れ店は閉まり、不便になったことがさらに人の減少を招く結果となった。今では主に、境城での監視と保全、修繕を行うことを生業としている者がいるばかりだ。この者たちは、かつての領主と交わした古き盟約を今でも守り続けていた。その者たちは辺境の地においても変わり者扱いされていた。古くは、鬼に滅ぼされた国から逃れてきた避難民たちの末裔であり、“馬駆る人”たちに困窮しているところを救われ召し抱えられたという。その恩を忘れず、また憎むべき鬼の記憶を誰よりも留めている一族として、鬼との戦からかれこれ70年が経つ今も、自らの務めを愚直に果たしていた。しかし、余人は知らないことであったが、“馬駆る人”は今でも、彼らと繋がっていた。それは、100年以上前にこの東の地を治めることを事実上投げ出して去ったと言われながら、実はそうではないというひとつの証しともいえた。
サンは険しい山道を歩く。ここに来る前に立ち寄った村の者たちのことが思い浮かぶ。今ごろは集まって一杯やってるかな。サンはちらっと思った。雨にずぶ濡れになりながら、いよいよ危険に踏み入れようとする自分と比べて、自然に口元に皮肉な笑みが浮かぶ。まさか命を落とすようなことがあるとは思ってなかったが、刀を抜くようなことがあるかもしれない。サンは予定通り、目印となる巨大な欅の下に座り、つかの間の休息を取ることにした。
大きな息をつく。座って休むのは、昼に手持ちのパンを食べて以来だった。急に雨に濡れた外套の重さと、濡れた身体が感じられた。厚い葉に覆われ木の根元に座るサンは雨をしのぐことができた。雨が葉に当たる音、そこから滴り落ちた雨粒が地面に落ちる呟き。背中にある幹の中を巡る水、木の営み。サンはそのすべてを感じとり、それらが自分の疲れを取り除いていくのに身を任せていた。
ほどなくして。つかの間の休みからサンは立ち上がった。先ほどまでの疲れはもう身体にはなかった。彼は再び歩き始めた。長い年月が経ち行き交う人もほぼない山道とはいえ、長い間、城へ物資運び上げる重要な役割を果たしてきたために、土台はしっかりして、降り続いた雨にも足元はぬかるみも少なくまあまあ歩きやすかった。
しばらく歩いたところで、森の中へ入っていく。今はほとんど使われなくなって分かりにくいところだったが、サンは迷うことなく歩んでいく。道は折からの雨もあったうえに、かなりでこぼこして歩きにくい。それでもかまわず進んでいくと、やがて周りの森は深さを増していき、ほとんど何も見えない中を歩くことになっていた。さすがのサンも道を見失しないそうになってきた。頼りになるのは、かすかに感じる風だけだった。深い森でほとんど空気が動かないところを、かすかに感じる方向に向かって歩く。その先に開けた場所に出るはずで、そこから緩やかに岩の多い丘を登っていった先が目指す場所だった。雨が降っているのを忘れるほどの密度の濃い森に、むせかえるような湿気がまとわりつく。風というよりも空気のゆらぎだけに集中して慎重に進む。敵が現れるかもしれない所まで、サンは自分が来ていることを感じ始めていた。噂は本当だったのか。城を守るサキモリや、魔法使いが警告を発していたのは偽りではなかったようだ。その明らかな兆しを、サンは確かめる為にやって来たのだ。
大きな戦になるかもしれない。約70年、人の地は表立って侵されることなく、当時を知る人間もほとんどいない今、どれだけの苦しみを味わったのか、語り継ぐべき話も家々から聞かれなくなっている。戦になった場合、どれだけの人間が集まるのだろうか。鬼の襲来を信じてくれるだろうか。戦の陣頭に立つべき人間の王でさえ、以前のようにはいかないだろう。強大な敵があったからこそ、王の下に一つにまとまっていた各地の領主たちも、戦乱の世から離れ過ぎていた。
ようやく、はっきりと前方から風を感じられるようになってきた。そして突然、森が終わり視界が開けた丘の上にサンは立っていた。雨は多少小降りとなっていて、むっとするような森の中を歩いてきただけにむしろ心地良い。しかし、その思いもすぐに打ち消された。彼の前方、石や岩がむき出しになった斜面に道は続いていて、くねくねと曲がりながら先は見通せない。その先は岩と石ころだらけの平地が続いていた。ここからでは分からないが、その先が彼の目指すところだった。戦乱の日からこれまでに、サンは幾度もここまでやって来ることはあったが、いずれも悪い兆しはなかった。しかし、明らかに今回は違った。これ以上足を運ぶまでもなく、何か良くないことが起きていることがはっきりと感じ取れる。むき出しの岩や砂利、石ころで足下の悪いところを慎重に登ってゆく。雨で濡れて滑りやすいので、なおさら神経を使う。遠く夜空が明るくなる。雨に加えて雷まで鳴りだした。だいぶ遠くなので音は微かに聴こえるだけだったが、少しずつ近づいてきている。雷によってサンの目に入る周りのものが、その瞬間明るく照らされる。岩がある以外はほぼ平地が続いた先に切り立った崖がほぼ垂直にそそり立っている。行く手を阻むかのような断崖絶壁が続いている。その頂上に巨大な城がそびえ立っている。
この場所こそ、人にあらざる鬼たちがやって来る所だった。
向こうが鬼をはじめとする混乱と争いを好む生き物たちが住む世界とされ、人の王の統治が及ばない混沌の地だった。彼らは常に戦いに明け暮れて人とその他の者たちの住む地に目を向けることはないが、時に鬼たちなど、ある種族が他のものたちの上に立つことがあると、その勢いのまま、まさに堰を切ったように、人が住む地を荒らしにここからなだれ込むことがあるのだ。そして、この城がその侵略から守る防波堤の役目を果たしてきたのだ。それが約七十年前を最後にこれまで平穏に過ぎてきていた。人と鬼たちの大戦はそれから起こってこなかった。
サンは城の入り口の前に立ちどまり見上げてみた。暗くて分からなかったが、どこも補修の必要がないほど、しっかりしているはずだ。今年の春に来た時もそうだったが、遥か昔、最高の職人たちと、最も力のある魔法使いである竜王が魔法で補完した不死の城であったので、特別に手を入れたわけでもないのに、今でも石と石の間から雑草一本たりとも生えないほど、ぴったり隙間のない城壁を保っていた。
ここに火が入る日も近いだろう。サンは見るとはなく今はがらんとした城内を通り過ぎながら確信していた。城壁の上まで続く石の階段を登る。城壁の上部は両手を伸ばした大人3人分程の幅があり、兵士たちは遥か下から攻め上がる敵に対して、弓を射たり、投石をしたり、そこで休憩することも、怪我の治療をする充分な広さを持っていた。難攻不落を誇るこの城が敵の手に渡ることは、これまで一度たりともなかった。
サンはその城壁の上部に上がり、遥か下を見下ろす。
と、そこに鬼が立っていた。
遠目にも異様な雰囲気を漂わせてこちらを見上げていた。まるでサンが来ることを待っていたかのように鬼が声を上げた。それは激しく降る雨音など関係なしに、周囲を不快にさせる耳障りな、鬼特有の声とも、音ともいいがたい叫び声だった。それはゾッとするものだった。人ではどうやっても出せない音。しかし、サンを戦慄させたのは、その鬼が人の言葉を話していることだった。鬼の口から出ることで、こんなにも禍々しい響きになるのかと、信じられないほどの不快さ。鬼が人の言葉を話すことなど今まで聞いたことがなかった。そのことが何より、サンには衝撃だった。
弱き者よ。かりそめの平和は終わりを告げるだろう。
恐れよ我らの足音を、恐れるがいい我らの雄叫びを。
ここより先、弱き者たちに光はもどらん。
汝らの肉を、骨を、血潮をすべて我らに」
鬼がそう叫んだ後に訪れる静寂、今日一日サンを悩ませ続けた激しい雨さえ心地よく感じられた。長い時を経ていよいよ鬼が人間と一戦交えようとしている。遂にその時がやってこようとしていた。
しかしまさか、鬼が人の言葉を話すとは驚いたな……。
サンはひとまず呼びかけに応じることにした。
「ここより先は通ることは叶わんぞ
我ら人はそちらに関わらない、お前ら鬼どももこちらにかまうな」
その言葉に鬼の卑しい声が轟く。
「我らは弱き者どもの泣き声が大好物なのさ
我らは混沌を好む
我らは破壊を好む
我らは弱き者どもの断末魔の悲鳴が聴きたいのさ」
そう言い放った後の笑い声の醜悪さといったら、大のおとなでも震えるような恐ろしいものだったが、サンはそれに対して力強く応えた。
「醜い鬼よ、お前たちの願い果たせないぞ。この境を越えようとする者たちには、死あるのみ」
死という言葉は鬼たちにとって最も忌むべきことを知っていたサンは、あえてそれを口に出して言った。それは鬼を怯えさせ、猛り狂うことになった。
「高いところだから我の手が届かぬと思う、愚かな者よ
戦がはじまる時にはまずはお前を一番に喰らってやろうぞ
必ずや、お前には想像すらできない苦痛を与えようぞ
この先、お前には安らかな刻など、一瞬たりとも訪れぬぞ」
興奮した鬼は最早、人の言葉ではなく、自分たちの言葉でサンに呪いをかけてきた。目につく武器を持っていないところからも、鬼の呪術師のようだった。鬼の呪いはとてつもなく強力な力があった。
しかし、サンは怯むことなく、より強く闇夜を切り裂くように声をあげた。
「俺にそのやわなまじないはきかんぞ。無駄なことはよせ。
そして、立ち去るがいい。お前の主に伝えろ。
人と鬼の領域を侵すな。こっちにお前たちの争いを持ち込むな」
鬼は自分のかけたまじないがどういうわけか効かないことが不思議でならなかった。刀こそ腰から提げているが、まるで力を感じさせないただの若造と見たが、まさか相手を見誤ったか。しかし、ここで引き下がることなど毛ほどにも思わなかった。
「己は何者ぞ。
我が主にお前の言葉なぞ伝えるには畏れ多いわ。
お前たち弱き者どもの哀れな王の声なら、この主の右腕たる我が聞いてやらなくもないぞ」
そう言葉を続けながら鬼の呪術師は、さらにまじないをかけていく。それは夜の闇よりも深く黒い触手を伸ばし、サンの周りに広がっている目に見えない守りをじわじわと侵していく。
これが話に聞く鬼のまじないの力か。半ば感心しながら、しかしこれ以上は耐えきれないと感じ、冷や汗が頬を伝う。
ここまでか。
刀を抜かずに済めば良かったがさすがに無理だったか。この自分が、長く続いたかりそめの平和に終わりに告げることになるとは。これまでに成したこと、彼の力、そして今日ここに来る時に新たな刀を託されたこと。全てがこの瞬間のためだったと思える。そんな宿命に無力な自分に皮肉な笑みも浮かぶ。だがそんな思いはほんの刹那、サンの頭を通り過ぎただけだった。その宿命と今まさに自分を侵そうとする鬼の呪いを振り払うように、覚悟を決めて腰に提げた刀の柄に手をかけ一気に抜いた。
「見るがいい」
サンは刀を抜いて頭上に掲げた。その刃からは青白い焔が立ち昇り、辺りの闇を薙ぎはらった。
「我は偉大なる人間の王の先触れを為す、忠実なる刃なり。
我を知らずともこの刀なら忘れまい。
この蒼白き焔を覚えておろう。
かつての大戦にてお前ら鬼どもを絶望させた必殺の刃ぞ。
この刀の主として改めて言おう。
我らにかまうな。
我らの地に足を踏み入れるな。
警告を無視するならば存分に戦おう。
しかし、待つのは死のみぞ」
鬼は叫び声をあげ慄いた。あまりにも恐怖に満ちた声だったので、哀れみさえ感じるほどだった。それもそのはず、サンが掲げた刀は、前の鬼と人がこの地で戦いを繰り広げた大戦で、鬼どもを敗走させた忌まわしい鬼殺しの刀に他ならなかったからだ。鬼を前にすると蒼白い焔を妖しくあげるその刀が、どんな屈強な鬼たちをも打ち砕き、遂には鬼の首領ーー最も残虐、最も狡猾で人の生き血を好むーーを葬ったのだ。鬼たちにとって最も恐れる存在の一つを目の前にして、首領の腹心が恐慌をきたすのも無理からぬことだった。自らのまじないも効かぬとあっては、もう逃げる以外に道はなかった。
鬼が絶叫とともに走り去るのを見届けたサンは刀を鞘に収めた。辺りはまた、雨の降る静かな闇に包まれた。うまくいけば鬼の来襲を先延ばすことができたかもしれない。そう思うことでサンは少しだけホッとする。とりあえず今は、自分の使命を果たすことができた。刀を抜けば鬼顔負けの凄まじい戦いをするサンだったが、戦いの備えができていない人側のことを考えると、戦うことはできれば避けたいと思っていたのだ。
いつの間にか激しい雨も収まり、しとしとと雨粒はサンと城壁に降り注ぐ。フードを外したままサンは、熱くなった身体を冷やすように立ち尽くした。
その夜サンと対峙した鬼は、その主の下に泣き喚きながら戻ったが、サンとあの蒼白い焔をあげる刃の恐怖に怯え、うわ言のように恐ろしい、恐ろしいと繰り返すばかりで、主の問いかけはおろか、話を聞き出そうと拷問まがいのことをしても要領を得ない応えしか引き出すことができず、大いに首領をはじめとする鬼どもを不吉な思いにさせることになった。残忍な鬼たちでさえ恐れる首領までもが、自らが送り出した呪術師が見る影もなく完全におかしくなった有様を目にして、すぐにでも攻めようという欲が揺らいだ。
結果的にサンがこの夜、人と鬼を隔てる地に行き着き、自らの力と鬼殺しの刀を現したことが、鬼の来襲をしばらくの間留めることになった。
その後、サンの力を目の当たりにした鬼は苦しみながら生き絶えた。一度も正気を取り戻すことなく。それが鬼の来襲をさらに先に引き延ばすことになった。
よくて三年、早ければ一年か。サンは鬼どもがやって来る時期をそうみていた。ほんの少しの間だけ、時を稼いだ程度だろう。これしきのことで、何十年と留めることなどできないことはよく分かっていた。むしろ、鬼たちがさらに力をつけさせることになったのかもしれない。自分のしたことが果たして良かったのか。しかし、自分を晒したことは、戦の準備が全く整っていないこちら側のことを思うと仕方のないことだった。ともあれ、これから近いうちに、王は古き盟約を交わしたものたちを集め、戦をしなければならないだろう。
サンはまず会うべき人を思い浮かべた。酒が必要だな。先ほどまでの鬼との対峙で固くなっていたサンの横顔に、微かだがようやく笑顔がうかんだ。それにお腹が減っているか。村に戻る前に雨をしのぎながら、手持ちのパンを食べることにした。
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