第9話 見ていた者 魔法使いハラン

 空が白みかけ、窓から差し込む日の光に、魔法使いのハランはいつものように静かに目覚めた。窓から見える海は穏やかだった。そこは窓際に簡素な寝床ベッドが置かれ、その脇に机と椅子、そして壁際に据え付けられた本棚には、大量の本や巻物、魔法の薬や薬草が納められた大小の瓶などが、一見無造作に隙間なく置かれている。足の踏み場も限られ、かろうじて人が通れるくらいに開閉ができる扉の先は暖炉のある居間だ。炊事場もある。彼が暮らす崖の上に建つその頑丈な石造りの家は、彼の前の魔法使いが長年に亘り暮らしていたところだった。この地にやって来て約半年が過ぎ、潮の香りのする湿っぽい風にも慣れてきた。山育ちだった彼は、海を臨む家に暮らすことになるとは夢にも思わなかった。


ハランは昨夜遅く、自身が受け持つ地の村々と一番大きな町を回り、5日ぶりに戻ってきたところだった。正式な魔法使いとなった彼にとって、初めて遣わされたこの任地の村や町を訪れるのはまだまだ馴れず、今回も緊張の連続だった。しかし、秋も深まりもの寂しい空気がこの地を覆い始めるのを感じながら、穏やかな天候に恵まれた今回の巡回を無事に終え、久しぶりに誰に気兼ねすることなくぐっすりと体を休めることができたのだった。


 先代の老魔法使いが亡くなった半年前――。

その死を一番近くに住む魔法使いに報せたのは、彼の使い魔だった。近いと言っても歩いて数日はかかる場所に居を構えているのだが、普段は猫の形をした使い魔はその時ばかりは烏に姿を変えて、大急ぎでその魔法使いの下へ、まだ身を切るような寒さが残る初春の夜を飛んで行ったのだ。驚いたのは報せを受けた魔法使いの方だった。何故なら使い魔は普通、自分の主が亡くなれば魔法によって結ばれた契約は解消され、誰かにの死を告げたりする義務などないのだ。恐らくそれだけ亡くなった魔法使いと使い魔の結びつきは強く、そして良好だったのだろう。本当の理由は知る由もなかったが、報せを受けた魔法使いが馬車を借り、人手を出してもらって人里離れた崖の上の石造りの家を訪れ、亡骸を丁重に葬るまでの一部始終を、その使い魔は静かに見届けたのだった。


 その後程なくして、ハランがその地を引き継ぐ魔法使いとして新たにやって来ると、今度はその若き魔法使いの使い魔として新たに契約を交わし、引き続きそこに居座ることとなった。別の魔法使いに続けて仕えるのはとても稀なことでもあり、さらに驚くべきことに、その提案が使役される側の使い魔からされたのだ。これにはハランも驚いたものだがしかし、それまで使い魔を持っていなかった彼は、長年この地を見ていた魔法使いの使い魔だった経験を大いに買い、喜んで自分の使い魔にすることに同意した。


 それから半年、若干お節介で人間臭いところの多い使い魔に閉口することもあったが、ハランはあらゆる面で助けられており、概ね満足していた。 


 さて、巡回明けの朝。起きたばかりの彼はそのまま居間にある大きな揺り椅子に体を預け、物思いに耽っていた。やるべきことは沢山ある。次々に頭に浮かび上がってくるが、そのどれもが今すぐやることではない。それをひとつひとつ確かめ、その度により深く体を椅子に埋めていく。そんな調子で起きたばかりであるのに、今日は一日休もうと気持ちを固めつつあった。


「朝になったばかりなのに、まだちょっと寝るには早いんじゃないかと思うけどね」

部屋の隅のまだ陽の差し込まない暗い陰の中からにじみ出るように、彼の使い魔、ミルが現れた。姿形は真っ黒な小さな猫にしか見えない。

「おはよう、ミル。確かにまだちょっとばかり早かったかもね。でも5日間きちんと務めを果たしたんだから、今日はのんびりさせておくれ」

ハランは我ながら言い訳がましいと思いながらも応えた。ミルは尻尾を振りながら揺り椅子の側まできた。

「“偉大なる魔法使い”殿、昨日までの大いなる巡回の旅路の疲れを癒したいのは分かるけど、他の用事は待ってくれませんよ」

「やれやれ、こんな気持ちのいい朝から嫌味を言うのは勘弁してくれ。いつも言うけど、私のことを“偉大なる魔法使い”なんて呼んでくれるなよ」

「ふん、なんてことを。少なくても僕は、自分の仕える主には本当に偉大な魔法使いになって欲しいと本気で思ってるんですけどね」

ミルは少し突っかかるようにして言ったが、ハランはそれに気づかないふりをしてのんびりと返した。

「ミル、私がそうでないことはこの半年でよく分かっただろう。いや、そもそもそんな特別な凄い魔法使いだったら、この地を見る役目を命じられることはなかったに違いないだろ?」

実際、ハランが魔法使いとして受け持つことになったこの地は、王国の東の辺境からは離れた位置にあり、王都からはさらに遠く、彼が「魔法使いの島」で学んできた、数々の魔法の術を披露するような機会が訪れそうもない地だといえた。


「前途有望な若い魔法使いであれば、島のつかさたちは手元に置きたがったろうし、危機に際して力を発揮するような熟練した魔法使いであれば、かの東の地であったり、もっと大事な場所へ遣わされるだろうからね」


「やれやれ、わが主どの。君はもっと志を高く持つべきだよ、きっとね」

ハランの口ぶりを真似ながらため息混じりにそう言うと、ミルはゆっくりと向きを変えて部屋の隅の陰に溶け込むようにして消えていってしまった。


 結局、その日は魔法に関わることは一切やらずにハランは過ごした。魔法の呪文を唱えることも、羽ペンを持ち古代文字を書くことも、呪文が書かれた秘密の魔法書や古代の巻物を開くこと、力を秘めた薬草を煮詰めることなど、とにかく魔法使いがするようなことは全部やらないと決め、そしてその通りにした。朝のミルの言葉に多少後ろめたい気持ちにさせられたことを恨めしく思いながら、徒らに寝室にある乱雑に置かれた本や瓶などを片付けてみたり、しなくてもいい事をしているうちに日が傾いてきた。一日が静かに終わろうとしていた。昨日までの5日間、魔法使いの務めをきっちり果たせたことの反動として、魔法に関わることは何もしない日としてみたのだが、どうにも落ち着かなかった。昨日まで村々を周り、そこで必要とされる魔法を使っていたのだから、急に何もしないでいるのは変な心地がした。


「私はどうしようもなく魔法使いなんだな」と自嘲気味に呟く。ミルが聴いていたら、ふん、当たり前じゃないか、気でも違ったんじゃないの、と呆れた口調で言っただろう。しかし、ミルは現れなかった。


 日が完全に落ちて昨日までの疲れが出てきたのか、ランタンを持ったハランは重い身体を寝床に持っていき早々に寝ることに決めた。布団にくるまったところで、梟の鳴き声がすぐそばから聞こえてきた。家に寄り添うように植わっている樫の木の枝に留まっているのだろうか。


まだ梟が鳴くような時間でもないのに……。


 ハランは夢が自分を引き寄せるのを感じながらも、それを妨げるように梟の鳴き声が次第に強くなるのを不思議に感じていた。頭の中で梟の姿が広がっていくのを感じる。なんだろう、ひどく気になる。梟……、梟といえば――

はっとして布団を跳ねのけて起き上がるのと、ミルが寝床に跳びのってくるのがほぼ同時だった。

「ハラン! 長の使い魔です」


これまで聴いたことのない切迫したミルの声は、完全にハランを現実に引き戻した。そう、そうだ、梟といえば魔法使いの長の使い魔が真っ先に思い浮かんだのだ。しかしまさか――ハランが急いで窓を開けてみると、さっと外の冷たい風が部屋に吹き込んだ。そして待ち構えていたように一羽の梟が部屋に飛び込み、寝床ベッドのヘッドボードに留まった。夜の闇に浮かび上がるような真っ白な大きな梟だった。魔法使いの長からの急ぎの報せが舞い込んだのだ。


「こんばんは、若き魔法使いハラン、そしてその使い魔ミル。魔法使いの島の長からの言伝を持ってきた」

その梟には自然な優雅さと威厳が備わり、ハランもミルもその前で居住まいを正し、畏まって長からの言葉を待った。

「東の地に異変あり。今から3日後の晩、境の城へ赴きそこでの事を見てまいれ」


思いもかけない言葉にハランは絶句した。


「お待ちください、3日後の晩に境の城……鬼に動きがあるのですか、何故私が? 東の地の魔法使い、ガルベラ様はいかがしたのですか?」

「不測の事態によりガルベラは動けぬ。そのためそなたが選ばれたのだ」


 人の住む地と、鬼を始めとする混沌の者たちの地を隔てる、東の境を監視するという重要な任務に就く魔法使いの代わりに使命を下されることになるとは、一体どういうことなのかハランは困惑した。魔法使いガルベラの名を知らぬ魔法使いはいないくらい、その名と力は知られているのだ。それに、地理的なことでいえばまだ他に適任者はいるはずだった。隣接する地にいる魔法使いは少なくても2人はいるのだ。そのことを使い魔の梟に問うてみた。


「わが主、魔法使いの長は其方について『常に力に対して恐れを抱き、それ故謙虚だ』と言っていた」

梟の答えにハランとミルは顔を見合わせた。

「それって褒め言葉なのかい?」

少し怪訝そうな様子でミルが疑問を投げかけた。すると梟はやにわに翼を大きく広げ、二、三度羽ばたいた。その巻き起こす大きな風にすぐそばにいたふたりは思わず「うわっ」と顔をそむけ、周りの本棚や乱雑に積み上げられた本や羊皮紙が飛ばされていった。

「ホーッホッホー! 魔法使いハランの使い魔ミルよ、主をよく知る我が保証するが、第一級の褒め言葉にもう間違いなしさ」

満足げに梟は声を上げた。その言葉はミルを大いに機嫌よくさせたが、ハラン自身は複雑な気持ちになった。本当であれば名誉なことであったが、過度な期待を持たれているようで素直に喜べなかった。そして既にこの使命は下され、自分がやり遂げねばならないことを思い身震いした。


 梟は飛び去った。白い姿はあっという間に夜の闇に吸い込まれるようにして見えなくなり、開け放たれた窓からは波の音と、潮風が吹き込むばかりだった。


「浮かない顔をしているね」

急にがらんとした感じの部屋で、ミルはベッドに丸くなりながら気遣わしげに言った。ハランはそれには答えず、戸締りをしてランタンの明かりの中、散らばったものを片付けていく。

「あと3日しかない」ぽつりと呟いた。

「まだ3日もあるじゃないか」努めて明るくミルは返した。

ハランは再び布団に潜り込み、中断された眠りに就こうとしたが、それはうまくいかなかった。眠りはなかなか訪れず、先ほどの出来事が繰り返し彼の頭の中を駆け巡っていた。









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東方戦記 オトギバナシ @MandM

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