第4話 鬼現る


 村の裏手に広がる森の中を、子供たちが駆け回っていた。盛りを過ぎたものの昼の太陽はまだ十分に、賑やかに遊びまわる彼らの汗を引き出していた。村の餓鬼大将をはじめ、まだ付いていくのもやっとの幼い子まで、10人ほどの子供たちが落ち葉や、木の枝などで戯れていた。昨日の雨のせいで湿った土に足を取られながら森の奥へ入り込んでいく。


 餓鬼大将は親の手伝いを逃れ、下の妹や村の子供たちを引き連れやってきていた。まだ声変わりもしていない幼さゆえに、うまく言葉にすることはできなかったが、近ごろ言い知れぬ不満が彼の中では溜まっていて、素直に親の言いつけを守って畑仕事を手伝う気にはなれないのだ。

 それは、精魂込めて作った家の畑の野菜や麦が、大雨や嵐によって一夜にして駄目になってしまう人の無力さであったり、ごく稀に街道を外れて旅する者が、この小さな村に一夜の宿を借りに訪れた時に聞く、まったく知らない土地の不思議な話だったり、可愛いと思いながらも、いつも自分の後ばかりついて来ることにわずらわしさを感じてしまう小さな妹だったり……。要するに、自分が望んでもいない場所にがんじがらめになっていることに気づきはじめていたのだ。


 おもしろくねぇ


 なんだかよく分からないが息苦しくてならない。もういくつになるのか本人でさえはっきりと覚えていないほど年老いた、村一番の古老がしきりに話す鬼と人が戦った長く暗い日々の話に憧れを抱くほど、彼は向こう見ずで、ものが分からず、大切なものが奪われる辛さなど想像もつかない幼い少年だった。


 そんな彼に連れられて子供たちはかなり森の奥まで来ていた。


「ここら辺は、“馬駆る人”がいるからよくないよ」


 同じ年かさの子が声をかけた。確かに、一昨年あたりからこの森の奥の山に“馬駆る人”が現れるようになっていた。時折、山で獲れる鳥や猪などの肉や貴重な茸や病気に効く薬草などを、村で採れる麦や野菜などと交換しているようだった。彼ら-かつてこの東の辺境の地を治めていた領主とその一族、家来たちのことをひっくるめて“馬駆る人”と呼ばれていたが、その呼び名も往時のような畏敬の念が込められたものではなくなって久しい。今では領主と領民という関係性はほぼないに等しく、大人たちが“馬駆る人”という言葉を使う際の、いささか皮肉めいた含みを子供たちは敏感に感じ取っていて、詳しくは知らないながら、子供にありがちな見当違いの思い込みによって、避けるべき者として近づこうとしなかった。


 ……いつからだろう、気がつくと子供たちの周りがやけに静かだった。不自然なほど静かすぎた。風も、風にそよぐ葉の囁きすら聴こえない。鳥たちも、他の生き物の息遣いもまったく何も聴こえない。子供たちが騒いでいる間に音がこの世からなくなってしまったような、異様な雰囲気だった。


 何か変だぞ


 そのことに気づいた子供たちが次第にはしゃぎ回るのをやめていく。お互いに顔を見合わせ、笑顔が不安そうな顔に取って代わってゆく。ただ静かなどではなく、息の詰まるような訳の分からない沈黙が足の下からじわじわと忍び寄ってくる。ひとりの子供の不安が、他の子たちの不安をさらに大きなものにしていく。呼吸が次第に早くなる。小さな子は早くもベソをかきはじめてしまった。広がっていた子どもたちの輪が、少しずつ餓鬼大将の少年を中心に寄り集まる。妹や他の小さな子供はもう今にも泣き出しそうだった。


 今まで楽しい遊び場だった森が、まるで何かを怖れて息を潜めたようだった。子供たちはその怖るべき存在に、身をさらけ出してしまったことにまだ気がついていなかった。


 俺が、ちゃんとしないと


 いつもは口うるさく、時に手を上げる両親や上の兄たちの顔が、餓鬼大将の少年、コフンの頭に浮かぶ。今ここにいるなら抱きついて泣きたかった。何故だか分からないけど、もう会えないんじゃないかという不安に押しつぶされそうになりながら、コフンは一番の年長者として健気にも何でもないように、気丈に振る舞った。


「大丈夫だよ。みんな、帰ろう」


 からからに喉は乾いてうまく言葉が出せずに怖がっているのは明らかだったが、そんな彼の言葉に少しだけ勇気をもらった子供たちは、踵を返して村へ帰ろうとした。


 しかし、帰ろうとした、振り返った先に、その異形のものはいた。


 大きく、酷く醜い。ほとんど何も身にまとわず、肌もザラザラとした質感でゴツゴツとした厚い筋肉に覆われている。肌の色は赤黒い。ひときわ恐ろしいのはその顔で、人と同じように目、鼻、口、耳が備わっているのに、それが全て、不格好に骨張った顔面に押し込められていて凶暴で醜い。手には粗末で粗雑に作られた木の柄に尖った石を無理やり巻きつけた石斧。ごつい手にしっくりと収まっているのが不気味だった。


 それは人に似て人にあらざるもの。不運な子どもたちが遭ってしまったこの異形のものこそ、鬼であった。


 子供たちといえば、まだ目の前にいるのが鬼であると頭で理解することができなかった。話には聞くことはあっても誰ひとり見たことがないのだ。しかし、身体はそれが途轍もないほど危険な存在であることを覚っていた。身体がぶるぶると震えて止まらない。泣くことも、声をあげることさえできず、慄く身体を皆、どうすることも出来なかった。いや、自分自身がそんな状態になっていることすら経験したことのない恐怖によって自覚できていなかった。


 鬼だ、本物の鬼だ


 コフンだけはかろうじてその存在を認識することができた。大人でさえ恐れをなして理性を保つのが難しい状況で、彼はむしろましな方だったかもしれない。とは言え、彼もただ立ち尽くすだけで、やはり為す術がなかった。


 鬼はいたぶるように子供たちに向かって殊更ゆっくりと近づいてくる。鬼はとにかくなんでも喰べる。憐れな生き物の苦しむ様も、断末魔の悲鳴までも意地汚く貪りつくす。そしてそれがとりわけ人であれば、泣き叫ぶほどの極上の獲物であった。


 鬼はさらにじわじわと近づいてくる。臭いが、堪え難い臭いがする。これまでに嗅いだことのない、酷く汚らわしい臭いがする。この臭いを嗅いだ森の生き物たちはいち早く異常を感じて、逃げられるものは逃げ、留まるものは息を潜めたのだ。鬼が現れる前に周りが怖いほど静かになった原因が、遅まきながら察せられた。その臭いがきっかけで、子どもたちは自らの恐怖を表にすることがようやくできた。泣き叫ぶもの、気を失うもの、失禁するもの、腰を抜かしながら逃げようとするもの、大変な恐慌が展開された。無論、その全てが鬼をより一層喜ばせることとなった。


 俺のせいだ。俺がいけないんだ、いけないんだ、俺が、おれが、おれが……


 猛烈な後悔がコフンを飲み込もうとしていた。後悔。ただ後悔の念しかない。とめどなく涙が、鼻水が流れる。何も出来ない無力感が彼を打ちのめす。生まれて初めて死が手に取れるほどの実感をもって彼の前にあった。


 そして遂に、鬼は一番近くに立ち尽くすひとりの憐れな子供に狙いを定めた。コフンだった。巨大な身体が陽の光を遮り、コフンをすっぽりと覆うように影を落とした。圧倒的な恐怖に気が狂いそうになる。鬼は無慈悲に手にする石斧を振り上げた。醜いその顔がゆがむ。残忍な笑みを浮かべたのだ。コフンは気づかないまま叫んでいた。せめてもの抵抗だったのか。しかしその叫びは鬼をさらに喜ばせただけだった。鬼の振り上げた腕にひときわ力がこもり、石斧が振り下ろされー


 その時、一陣の風が吹き抜けた。


 その風はまるで意識を持っているかのように、今まさに石斧を振るおうとした鬼を制するが如く、その顔面を吹き抜けた。

 思わず鬼がそちらを向く。恐怖に震える子供たちもはっと顔を向ける。コフンをはじめ子供たちには一瞬、何が起きたのか分からなかった


 そこにいたのは女だった。美しい女だった。


 その手にはすでに抜かれた“刀”があった。それは“馬駆る人”の剣士だけが持つ特別な剣であることを、子供たちの誰もが知っていた。女は鬼を前にしてまるで動じる様子がない。華奢な感じに見えるが狙った獲物を逃さない、鷹を思わせる鋭さと非情さを感じさせた。そのまま静かにコフンと鬼の間に歩を進める。軽々しく動くことを許さない力が、女とその刀から発せられていた。一見無造作に提げられた刀は、ひとたび鬼が攻撃に出れば忽ち必殺の一撃が放たれる、そんな様子に見えた。とうとう鬼が手を出せないまま、獲物であったコフンの間に女が立ちはだかることになった。しかし、女は鬼に対峙したかと思うとくるりと背中を向け、子供たちに向かって笑いかけた。


「みんな、もう大丈夫よ」


 澱んだ空気を一掃するような凛とした声。恐怖に飲み込まれていたコフンたちは、その声によって正気を取り戻した。まるで悪夢から目覚めたような面持ちだ。と、同時に鬼に背中を向けた女にコフンは慌てた。すぐ目の前に鬼はいるのだ。無防備な背中を目の前で見せられ、鬼も侮られていると感じたのだろうか、怒りの声をあげ石斧を振り上げ女に襲いかかる。その刹那、まるで待っていたかのように女が振り向き、振り下ろされた鬼の腕に何かが閃いた。


 女を確実に叩き潰すはずだった丸太のように太い鬼の腕が、肘からすぐ下が、石斧を握ったまますっぱりと地面に落ちていた。女は全くの無傷だった。その眼は燃えるように輝き、鬼を貫き通していた。


この“馬駆る人”の女剣士、シラユキが放った一太刀が、約七十年の時を経て、再び人と鬼との戦いの始まりを告げることになるのだった。


 女は振り向きざま、振り下ろされる腕をめがけて刀を下から一閃、鬼の石斧が届くより速く斬り上げたのだ。あまりにも速く鮮やかに斬られたために少し遅れて腕から血が噴き出した。鬼は斬られた右腕から血が噴き出ることにまだ理解が追いついていないようだった。二、三歩後ろに無様によろけた。身の毛がよだつ声をあげる鬼。痛みと怒りに我を忘れて目の前の女に掴みかかろうとするが、それよりも速く再び女がしなやかに二の太刀を振るった。


 コフンはその一部始終を目の当たりにしていた、はずだった。女の一言、無防備な背中へ向けて鬼の一撃が振り下ろされたところ……。目でなんとか追えたのはそこまでで、その後の稲妻のような激しく速い一太刀が鬼の腕を斬り上げた瞬間も、鬼が吐きそうなくらいの不快な声をあげて女を掴もうとした瞬間、またしても何かが閃いたと思うや、今度は鬼がものすごい勢いで地面に倒れていたのも、何もかも一瞬の出来事だった。


 鬼はぴくりとも動かなかった。すでにこと切れていた。


 訪れた静寂。放心状態の子供たち。自分が助かったことよりも、鬼より遥かに強い女の強さが、身体中、痺れるくらい強烈にコフンと他の子供たちを射抜いた。


 なんだこいつ、人なのか


 呆然とするコフンたちを前に、女は腰の鞘に、鬼を斬った跡などどこにも見当たらない美しい刀身を静かに収めると、先ほどまでの怒りに輝く眼はどこへやら、涼やかな目で子供たちを見返してきた。


「みんなもう大丈夫よ。ほら、息をしなさい」


 言われてはじめて自分が息をつめていたことに気づく。とたんに息苦しくなって咳き込む。あらい息をついて力が抜けたコフンは、がっくりと倒れこんでしまうが、それを女が優しく抱きとめてくれた。コフンは恥ずかしさのあまり慌ててその腕を払いのけた。鬼を斬り伏せたとは思えない、細い腕だった。コフンはまだふらふらする四肢に力を込めて周りを見渡した。みんな無事だった。まともに立っている者などいなかったが、みんな無事だった。改めて悔しく、恥ずかしく、どこかに逃げたい気持ちになってしまう。安心したのと、自責の念にかられてボロボロと涙がこぼれた。


「俺がいけないんだ。ごめんなさい。みんなごめん。俺のせいだ」


 

 女はふわりと彼のそばに膝をつき、目を合わせてしっかりと言った。


「あなたは何も悪くないわ。あなたは年長者として立派だった。鬼を目の前にしてまともでいることは大人だってなかなか出来ないのよ。そのことを誇りに思いなさい」


「何もしてないよ。俺は何もできなかったんだ。勝手にこんなところまでみんなを引っ張りまわして怖い目にあわしたのは俺なんだ。なのに俺は何もできなかった。少しも立派なんかじゃないよ」


 そう泣きじゃくる少年に優しく女は言った。


「あなたが何もしてないですって。そんな馬鹿なこと言わないで。ほら、見てごらんなさい。あなたはみんなを庇うように誰よりも鬼の近くに立ったまま、そこから後ろに下がらなかったのよ。ううん、それどころか、鬼が現れた時にはあなたは一番鬼から離れたところにいたのよ」


「えっ?」

コフンはよく意味が分からないようだった。そんな少年の様子に女剣士の端正な顔に笑みがこぼれる。笑うと少女と言ってもおかしくない年に見えた。そしてそっと諭すように話した。


「あなたはみんなの先頭に立ってこの森の奥へ進んでいたでしょ。鬼が現れたのはあなた達の後ろから。ね、鬼から見ると、あなたがみんなの一番後ろにいたことになるのよ」


確かにそうだった。でもだからどうだと言うんだ。まだ分かっていないコフンに真剣な表情になって女は続けた。


「鬼が現れた時に後ろにいたあなたは、みんなを庇おうとしたんだと思うんだけど、あの恐ろしい鬼の一番近くまで進んでいったのよ」


本当だろうか。自分がみんなを庇おうと思って、あの鬼の前に自分の身をさらけ出したというのか。恐怖から逃れたいと思っていたことだけは鮮明に覚えていた。でも、もし本当に女の言う通りだったとしたら……。


「あたしは強いと呼ばれる人を沢山知っているけど、あなたと同じようなことができる人が何人いるかしらね」


 晴れやかに女は言い、少年の背中を強く叩いてあげた。


「あたしはシラユキ。あなたは?」


 じんとする背中の痛みがなぜだか心地よかった。


「俺はコフン。ニノベ村のコフンだ」


 人懐こい笑顔を見せたコフンにとびきりの笑顔を返したシラユキはそして、きっぱりとした口調で言った。


「さぁ、みんな帰るわよ。怖い思いはもう十分でしょ!」

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