自転車のスタンドを立てて、自分の部屋へ階段を駆け昇り、ベッドに身体と荷物とを放り出す。五時限、六時限と憂鬱な時間を過ごし、今日は部活を完全にカットして、とにかく一路、家路を急いだ。


 私はどうすればよいのだろうか?

 答えは、ひとつだった。

 サイドテーブルの上の写真立てに手を伸ばす。中には、失った幸せがあった。

 取り戻すために、何をすればよいのか?

 答えは……ひとつだった。ずっとそれを心から望んでいたのに、もう痛いのは嫌だからと、そう言って遠ざけてきた。


 スカートのホックを外し、学校指定のハーフパンツをすとんと落として、セーラー服をハンガーに掛ける。箪笥の奥から引っ張り出したジャージは少しだけ丈が短くなっていたが、そんなことは些事でしかなかった。


 走りたいのだ。その気持ちに嘘はない。


 けれど。

 運動靴の踵を合わせて、再び吸った埃の外気。

 走り出すことは、出来なかった。どうしても、どうしても――あの日の記憶が蘇る。走ってはいけない、走ったら――また。


「走りたい……っ……走りたい、のにッ」


 足は進まない。まるで感覚が麻痺しているかのように、ちぐはぐに歩くのが精一杯。

 ずっと逃げてきたことに向き合った。それはとても素晴らしいことで、それが虚構フィクションの世界ならば、そこから待つのはハッピーエンドに他ならない。

 けれど現実、実際に、そういう決意新たにとやらをやったとしても、突然何かが変わることなどあり得ない。そんな簡単に人間は変われない。それが現実になってしまったら、この世には傑物が溢れかえっているだろう。トラウマという心的なものだって同じだ。


 だけど、それでも、なればこそ。

 また立ち止まってしまったら、それだけ風を切る日は遠いから。

 コンマゼロイチずつ刻むタイムと同じく。

 血反吐を吐いてでも、少しずつ。その過去の束縛を切り刻もう。

 だって、私は――


「走るのを止めてほしくない……っ……」


 いかに身勝手な願いでも、それが真実、根底より願うものなれば。だって、私は。せめてアキラには、走っていてほしいのだ。笑っていてほしいのだ。


 踏み出す一歩は右へ左へ、今にもどこかに倒れそう。それでも確かに少しずつ、歩行の域から抜け出そうともがき続ける。


「……しおり?」

「アキラ……」


 差し出された手は、頼りがいのある大きな手。

 張っていた気を抜いてしまおうとして、糸を掴んでそれを制した。


「ちょっと、手伝ってくれないかしら?」

「……無理すんなよバカ。その、俺、言いすぎた。お前だって――」

「気にしてないわよ。とりあえずリハビリ付き合って」

「は? いや、だからその」


 怪訝な顔をしてみせるアキラに、私は微笑みを返した。


「あなたに走ってほしいのよ」

「だからそれは……」

「一緒に走りたいの」


 一瞬にも永劫にも感じられる視線の交錯は、アキラの嘆息で締められた。


「……ああ。俺もだ!」


 言って、アキラは私の手を取った。

 まるで温かな羽毛が舞うみたいに。


 そうして、私は歩き出す__もとい、走り出す。

 恐怖に怯える心を支えてくれる、右手の温もりを感じながら。


 ゴールテープは、いまだ遠く。されど優しき、我らが世界。

 降りだす雨には、濡れないように傘を指して。

 迷いながら行こう。

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雨の日には傘を差して 郡冷蔵 @icestick

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