Ⅳ
自転車のスタンドを立てて、自分の部屋へ階段を駆け昇り、ベッドに身体と荷物とを放り出す。五時限、六時限と憂鬱な時間を過ごし、今日は部活を完全にカットして、とにかく一路、家路を急いだ。
私はどうすればよいのだろうか?
答えは、ひとつだった。
サイドテーブルの上の写真立てに手を伸ばす。中には、失った幸せがあった。
取り戻すために、何をすればよいのか?
答えは……ひとつだった。ずっとそれを心から望んでいたのに、もう痛いのは嫌だからと、そう言って遠ざけてきた。
スカートのホックを外し、学校指定のハーフパンツをすとんと落として、セーラー服をハンガーに掛ける。箪笥の奥から引っ張り出したジャージは少しだけ丈が短くなっていたが、そんなことは些事でしかなかった。
走りたいのだ。その気持ちに嘘はない。
けれど。
運動靴の踵を合わせて、再び吸った埃の外気。
走り出すことは、出来なかった。どうしても、どうしても――あの日の記憶が蘇る。走ってはいけない、走ったら――また。
「走りたい……っ……走りたい、のにッ」
足は進まない。まるで感覚が麻痺しているかのように、ちぐはぐに歩くのが精一杯。
ずっと逃げてきたことに向き合った。それはとても素晴らしいことで、それが
けれど現実、実際に、そういう決意新たにとやらをやったとしても、突然何かが変わることなどあり得ない。そんな簡単に人間は変われない。それが現実になってしまったら、この世には傑物が溢れかえっているだろう。トラウマという心的なものだって同じだ。
だけど、それでも、なればこそ。
また立ち止まってしまったら、それだけ風を切る日は遠いから。
コンマゼロイチずつ刻むタイムと同じく。
血反吐を吐いてでも、少しずつ。その過去の束縛を切り刻もう。
だって、私は――
「走るのを止めてほしくない……っ……」
いかに身勝手な願いでも、それが真実、根底より願うものなれば。だって、私は。せめてアキラには、走っていてほしいのだ。笑っていてほしいのだ。
踏み出す一歩は右へ左へ、今にもどこかに倒れそう。それでも確かに少しずつ、歩行の域から抜け出そうともがき続ける。
「……しおり?」
「アキラ……」
差し出された手は、頼りがいのある大きな手。
張っていた気を抜いてしまおうとして、糸を掴んでそれを制した。
「ちょっと、手伝ってくれないかしら?」
「……無理すんなよバカ。その、俺、言いすぎた。お前だって――」
「気にしてないわよ。とりあえずリハビリ付き合って」
「は? いや、だからその」
怪訝な顔をしてみせるアキラに、私は微笑みを返した。
「あなたに走ってほしいのよ」
「だからそれは……」
「一緒に走りたいの」
一瞬にも永劫にも感じられる視線の交錯は、アキラの嘆息で締められた。
「……ああ。俺もだ!」
言って、アキラは私の手を取った。
まるで温かな羽毛が舞うみたいに。
そうして、私は歩き出す__もとい、走り出す。
恐怖に怯える心を支えてくれる、右手の温もりを感じながら。
ゴールテープは、いまだ遠く。されど優しき、我らが世界。
降りだす雨には、濡れないように傘を指して。
迷いながら行こう。
雨の日には傘を差して 郡冷蔵 @icestick
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