時間とは、唯一この世界で万物に普遍のものとして存在する事象である。けれどもその感じかたには差異があって、人間の場合、主に心拍数の増減で時間に対し早いと感じたり、遅いと感じたりする。基本的には高心拍、要するに興奮している状態で人は時間を早いと感じるが、私は至極リラックスした状態で時間跳躍にも似た感覚を得た。


 つまり、寝ていた。授業中の些細な居眠りと言いたいところだが、熟睡と言ったほうが適切だ。だって夢まで見ていたのだから。


 ――懐かしい夢だった。中学で、まだ走れていたころの夢だ。

 アキラと私は、陸上部における短距離走のツートップとして、県ランキングでもなかなかの好成績を修めていた。アキラと毎日、一緒に走って、一緒に休んで、一緒に笑っていた。十五年ちょっとのこの人生で一番楽しかったのはいつかと問われれば、間違いなくあのときと言えるだろう。

 もっとも、程なく、それは人生最悪の時間になったのだが。


 凸凹の平坦化を使命とする者は、中学生にも一定数いる。いじめっ子というやつだ。それは一般に女子に多く、私たちの中学も例に漏れなかった。


 私は出来すぎてしまった。二年のころにはもう部内では走ることで負けることがないほどになってしまっていた。その上皆の人気者ことアキラといい雰囲気、おまけにあまり人付き合いが得意ではないとくれば、これでいじめられない理由の方が少なかっただろう。

 典型的な事だが、最初は小さな嫌がらせで、それが徐々に徐々にと熱を帯びて、私にいくつもの焼き印を押すようになっていった。そして……あの、三年春の大会で。


 泥水の中のユニフォームは、未だ記憶に鮮烈だ。


 努力は暴力によって容易に崩れ去り、私の心は折れてしまった。しばらくはただの水にすら激しい忌避感を催し、ほぼ常に脱水症状でふらつく頭を押さえていた記憶がある。この世にあまねく液体に怯えながら、保健室登校で他者との関わりを絶ちながらどうにか出席数を稼ぎ、精神科に通うだけの毎日だった。

 走ろう、という気すら起こらなかったので、心に余裕ができるまでは気づかなかったが、いざ気分転換に走ってみようとすると、彼女らの顔が頭に浮かぶわけだ。


 生き甲斐を無くして、これ以上生きる意味はあるのかと、自殺を幾度も考えた。けれど、生きたくないのは確かだが、死にたくもなかったのも真実だった。

 なあなあになった生死観のまま、何となく生きてきた。それが、私という人間だ――。


 頭を振って思考を掻き消し、現実の情報を仕入れるべく辺りを見回した。時計は授業終了五分前を指していて、その下、黒板にはぎっしり数式が描かれている。写す気が起きなかったので、開き直ってシャープペンを置いた。

 もうすぐ昼休み。アキラに訊ねる文言でも考えたほうが、残り五分の使い方として遥かに有意義だ。


 ちらり、と右斜め前、短く切り揃えられた襟足を見ると、その首は水飲み鳥のようにかくかく動いていた。どうも、アキラも居眠りの真っ最中らしい。程なく、授業の内容を終えこちらに向き直った教師がそれに気づき、周囲のくすくすという笑いと共にアキラの元に忍び寄って、頭を軽く小突いた。

 そしてチャイムは刻を告げる。

 起立、礼、それから私は一直線、アキラの席に歩を進めた。


「少し、話があるのだけど」

「ん? ああ……いいけど、何だ?」

「廊下に出ましょう。あまり公然と話すことでもないから」


 取り出しかけていた弁当を鞄に落とし、アキラは後ろを着いてきた。

 廊下は、昼休みの教室の賑わいから離れて、遠くの水道に幾人かが見えるのが人の気配の全てだった。


「それで、話って?」

「かずねから聞いたのだけど、最近部活サボってるそうじゃない? 頼まれたのよ。何か理由があるのかどうか聞いてくれって」


 苦虫とまではいかないまでも、何か虫を噛み潰したような、曖昧な表情をアキラは浮かべた。


「何でお前が?」

「幼なじみだから、だそう」

「……何でもない。大丈夫だぜ」

「それにしてはじゃない。リレーだって、もっと速かったと思うのだけど。その、もしかして――」


 今度こそ、アキラは苦虫を噛み潰した。それから僅かに怒気を孕んで、まるで風化が進んだ石が崩れるみたいに、言の葉を割った。


「……別に、何でもない。やる気が出ないだけだ。……ゴール」

「……え?」


 粉々に砕けた石はちりちり燃えて、大きな炎を生み出した。


「ずっと、ずっと――俺はお前を追いかけてやってきたんだ! ゴールが突然なくなったら、俺はどこに向かって走ればいいんだよ?」


 それは、そうだった。物理的な意味で、感覚的な意味で、私たちはいつも一緒に、僅かに私が先行して走り抜けてきた。ずっと。子供のころ、私の後ろを彼が追いかけてきたときから。


「流石に去年は仕方ないと諦めたさ。でももう、はいないだろ? 走ろうぜ。一緒にまた、走ってくれよ。頼むから……」


 悲哀に満ちたアキラの顔が、思い出の中の私たちの笑顔が、動かない足を震えさせた。


「な――によ、それ。……知らない。知らないわ」


 返せる言葉は、何もなかった。だから、無責任な言葉を紡ぐ。

 知っているのに。分かっているのに。例え理由がどんなものだとしても――。


 走れなくなるのが、どれだけ悲しいことか。

 生き甲斐を失うのが、どれだけ辛いことか。


「……しおり?」


 一人の走者を挫折させたという点では、彼女らも私も、変わりないのだと、そう、思ってしまった、から。

 突然おろおろと焦りだしたアキラに背を向けて、くすんだ窓越しの曇天を見た。

 今度は、私が代わりに泣き出した。

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