雨こそ降っていないものの、黒い空は教室を暗く演出していた。例年より遅い梅雨はじとじととした暑苦しさを存分に発揮している。体育祭までに梅雨は明けるのだろうか。明けないなら明けないで、それも良いかもしれないけれど。

 重い空気の中を進み、自分の席に鞄を置くと、タイミングを見計らっていたらしいかずねが近づいてきて、私の身体に倒れかかってきた。


「しおーっ、聞いてくれよぉー」

「ど、どうしたの?」


 日渡和音は、少し茶色がかったショートヘアと快活そうな笑顔が可愛らしい、小動物のような女の子だ。四月、このクラスが始まったときに席が近かった以来の仲である。第一印象としてはバスケ部という感があったが、いま彼女は陸上部のマネージャーをやっている。……アキラといい、完全には絶てないというか、なんというか。


「アキラがさあ、最近練習サボるんだよ」

「えっ?」

「昨日なんか途中までいたのにいつの間にかいなくなっちゃっててさあ」

「そう……なんだ。どうしたんだろうね」


 まさか自分のところに来たなどと言えるわけがない。そんなことをすれば、話がこじれるのは見えていた。

 けれど……あのアキラが練習をサボっているということがどうにも信じられない。三度の飯より走ることが好きだと素面しらふで言うようなやつだ。だからあの五分ちょっとの談話も、彼の言うとおりちょっとしたインターバルだと思っていたのだが、どうも違ったらしい。


「最近なーんか暗いしさ。何かあったのかなあ」

「何かに迷えるほど賢そうには見えないけどね」


 肩に顎を乗せて唸っていたかずねを引き剥がして、鞄から水筒を拾い出す。


「あ、そうだ。しお、幼馴染なんでしょ? ちょっと言っといてよ」

「ぐっ!? かはッ、なッ、誰からそれを?」

「え? アキラが言ってたけど」


 なんとかお茶を嚥下して問うと、何でもない答えが返ってきた。人気者の幼馴染は大抵嫌がらせに遇うものだから、と何となく隠していたが、それは本の世界での一般であって、私にとってはただの自惚れだったらしい。


「あー……そう……うん。分かった。言ってみる」


 水筒の蓋を閉めて再度鞄に放り、そういえば、とかずねが何かを言いかけたところで、朝の予鈴がクラスを白けさせた。


「じゃあ、よろしくね!」

「う、うん」


 彼女を見送り席に着き、片肘をついて考える。

 議題は勿論、遠藤章。


 アキラは私の幼馴染、ということになると思う。高校生も幼いといえば幼いから、いつまでが幼馴染かというのは各人の感覚だけれど、とりあえず彼と私とは、幼稚園来ずっとの付き合いだ。

 明朗快活、気性勇健。誰もが羨み、または蔑む、敵も味方もすこぶる多い、いわゆるクラスの人気者。といっても私としては負けず嫌いなやつくらいにしか思っていないが。

 もっと幼いときは運動は苦手だったはずだが、運動が得意だった私に付いて、走ることに力を入れるようになり、以来は走ることを何よりの至上としていた。


 それがどうして、陸上の練習をすっぽかすのだろう。整理しようとしてはみたが、まったく理解が及ばない。答えが出ない問いを問い続けるのは哲学者くらいのもので、そして私は哲学者ではなかったから、後で本人に訊ねることにした。といっても一時限目から体育で移動だから、訊くのはしばらく後、昼休みあたりになりそうだが。

 担任の話を聞き流して、読みかけの本の続きを思い描く。SHRはいつも通り、濡れた空気を食んでいた。


 他のイベントとの折り合いで、体育祭が梅雨明けすぐに行われるこの学校では、体育祭の練習、というものが雨であることが多い。今日のように、いささか不安の募る黒い曇天ながらも、練習が外で行えるというのは珍しかった。

 したがって、必然的に、普段の室内練習ではやりにくいことを詰め込む練習になる。つまるところ、棒取りとか、騎馬戦であるとか。

 棒を運んでいると、不意に手にかかっていた重みが軽くなった。


「やっと棒引きできるねー」

「かずね……びっくりした」

「あぁ、ごめんごめん。足は大丈夫?」

「うん……ほどほどに頑張るよ」


 踏ん張る分には問題ないのだ。……脚そのものには、なんの問題も生じていないから。

 他愛のない話は、突如として、ひまわりみたいな歓声に掻き消された。見れば後続の女子集団が皆一様に太陽を向いており、軌跡を辿ると果たしてそれは、組上がった騎馬たちだった。


「あ! アキラだ」

「騎手なんだ。意外」


 あいつのことだから、てっきりどこかの馬の主力になっているものだと思っていたが、騎手の方だったようだ。。陸上部といい騎馬といい。……やはり何かあったのだろうか? 走りたく、なくなるような、何か――。

 ずきん、と脳が悪魔に掴まれた。

 ……後で訊けば、分かることだ。

 そう、無理やり自分を納得させて、いそいそと棒を運んだ。


 結果から言えば、棒取りは思っていた以上に走行を要求される競技だった。皆頑張りすぎじゃなかろうか。体操服に付いた砂を払っていると、見知った顔が近づいてきた。

 どこか不満げな、切れ長の目はじいっとこちらを見つめている。


「なに?」

「……いや……やっぱり、走らないんだな」

「……そうね。走らない。聞いた話だけど、あなたも最近走ってないそうじゃない。人のこと言えるのかしら?」


 にやにやと問うてみると、どうも深刻そうな顔つきで、アキラは小さく首を振った。


「……俺は」


 ぴいい、とホイッスルが鳴って、リレーを始めるから走順で並べ、といった旨の指示が入った。言葉の先を潰されて言いあぐねていたアキラは、ぱっと身を翻して列の方に走っていった。


「……かなり、参っているようね……」


 不安は形を大きくして、傷んだ心に黒い渦を巻いていく。最初から、目星は着いていた。幼馴染だからとか、そういう甘酸っぱい理由なんかではなく、ただの苦く、痛ましい経験則として。


 日本人は、数ある人種の中でも、『横並び』を強く推す種族だ。

 それは秩序ある武家社会だとかどうとかに端を有する、というのはどうでもいい雑学だけれど、それが生み出す結果は、私たちただの高校生にも大いに関係がある。

 横並び、とは、良く言えば平等、そして悪く言うなら、であろう。

 出すぎても引っ込み過ぎてもいけない。どちらも、素晴らしい景観を形づくるには不適当だ。ならば――ほら、切ってしまえ。そうすれば、我らはいと美しい形の木になるのだから。


 日本人は、数ある人種の中でも、『いじめ』の多い種族である。


 ……気分が悪くなってきてしまった。かといって保健室のベッドに寝転ぼうものなら、さらに悪い考えを巡らせてしまうことは分かっている。だから私は、ただただぼうっと、繋がるバトンを追っていた。

 こちらへ、あちらへ、またこちら。かずねが振ってきた手を振り返し、赤いバトンはまたあちら。 そうして――いつしかバトンは、一位のまま最終走者へ。

 私たちの赤いバトンは、最終走でわずかに劣り、二位でゴールラインを踏んだ。


 アキラは、間違いなく、今までよりも遅かった。

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