雨の日には傘を差して

郡冷蔵

 六月の雨はどこか静かで、窓ガラスをつたう水滴の群れは儚げな雰囲気を醸し出している。本のページを捲る音は湿って重たい空気に響き、どこか遠くに消えていく。

 雨は嫌いではないが、こうも続けば人間たる以上少々沈鬱な気分にもなるわけで……ようするに、梅雨は嫌いだ。

 まあ、運動部よりは影響を受けにくい立場ではあるけれど、その階段を登り降りするサッカー部だか陸上部だかの声で読書に集中できないというのは、文芸部の活動を妨害する確たるものとして存在していた。


「よう!」

「……なに?」


 まさか、そいつらが一人のこいつが部室にまで入ってくるとは思いもよらなかったのだけれど。高鳴る鼓動を抑えつけて、私は笑みを返した。

 雨で締め切りとなっている室内に、汗の匂いと申し訳程度のレモンの香りが広がってきたので、吹き込みにくい南側の窓の端をすこしだけ開ける。


「いや、暇なんだよ」

「階段走ってたじゃないの。こんな所で油売ってていいのかしら?」

「もうセット終わったから待機中。ラストが終わるまであと五分はあるだろ。たぶん」


 相変わらずというか、何というか。中学のころと同じように先輩泣かせをしていそうだな、と、他人事みたいな感想は口には出さなかった。

 だから代わりに、向かいの椅子の脚を蹴る。


「……座ったら? 五分休憩なんでしょ?」

「お、サンキュ。ついでに水あるか?」

「文芸部に何を求めてるのよ」

「いやしっかし、相変わらずお前一人なんだな。廃部になんねーのか?」

「これでも一年前写真部と幽霊部員を本気で取り合ったのよ。少なくとも私が卒業するまでは潰れないわ」


 ほーん、と、どうでもよさそうな反応で彼はしばらく埃まみれの部室を見回していたが、ふいに、私と目を合わせて、そのままじっと見つめてきた。


「――お前も、来ればいいのに。陸上部」

「いやよ」


 考えるよりも早く口が動いた。半ば脊髄反射で拒絶する。だって、それは私のトラウマ。二度と出来ない昔の夢なのだから。


「……だって、暑苦しいもの」


 そう言って、誤魔化した。高い湿度と温度、すなわちじめじめとした――暑苦しい梅雨の雰囲気も手伝って、私たちは二人の独りぼっちになる。


「……さあて、俺はそろそろ行くかな」

「……ええ。頑張って」

「おう」


 彼の背中を見送りながら、私は読みかけの本に栞を綴じて鞄に放った。今日はもう帰ろう。こういう気まぐれができるのも、この部活の強みだ。

 部屋がまだ汗臭かったから。……懐かしい匂いが、私を糾弾しているような気がして、ならなかったから。


「何をしているのかしらね」


 文芸部は、悪くない。昔から本は好きだったし、好きな時間に帰れるし、練習なんてものもないから、自分の時間を作りやすい。そして何より、実際として部員が私ひとり。

 ――『ひとり』は嫌いだ。それでも、『みんな』よりは、随分とマシなものだった。寂しいと思うことはあっても、傷つくことはないのだから。


「私はもう、走れないのよ」


 階段をひとつ降りるたび、気分も落ち込んでいく気がした。

 私はあなたのような、バカではないの。あなたみたいに強くないのよ、だからお願い、もうやめて。あなたが私を誘うたび、私の足は遅くなるから。

 運動なんて想定されない、ローファーひとつの靴箱で、スリッパを履き替える。しとしとと泣く石畳が、足音に合わせてぴちゃりぴちゃりと小さな冠を形作って、端から端からほどいていく。走れば十秒と少しでたどり着けそうな駐輪場までを、ゆっくりと、歩いていった。屋根のある場所でランニングを決行しているらしい野球部が、私を追い越し前へ前へと走っていく。

 合羽はまだ登校のときの雨露が残っていたらしく、取った拍子に水がぺたぺたと敷石を濡らした。


『  』


 記憶のどこかから、また、いい気味だと嗤う彼女の声がした。

 震える手で合羽をカゴに突っ込んで、溜め込んでいた息を吐き出す。手は無意識に髪をくしゃりと巻き込んで耳を塞いでおり、膝は何かの楽器みたいにがくがく音を鳴らしていた。


「……走らない。もう、走らない、から――……!」


 視神経はじくじくと痛みを発し、頭は熱を持って冷静な思考を焼いていた。胃の中が熱された棒でかき回されているかのような激しい胸焼けと嘔吐感が思考を真っ白にすると、ついにかくん、と膝が折れて、鈍痛の後、溜まった雨水の冷たい感触が、スカート越しに感覚を昇っていく。

 それでようやく冷静な思考を取り戻した私は、余計なことは何も考えないように立ち上がって、そのままサドルに跨がった。

 からからと動き出した車輪が私を家に運んでいく。

 幾許もなく、ぽつぽつすすり泣いていた黒雲が、私の代わりに、ざあざあと泣き出した。

 ひたひたとブラウスが肌に張り付くのは気色悪かったが、合羽を広げる気にはなれなかったので、そのまま自転車を進ませた。




 すっかり濡れ鼠の私を出迎えた母はタオルを渡してくれたが、シャワーを浴びるから、とそれを制して、リボンをほどきながら脱衣場に向かった。


 暖かいシャワーが、冷えた身体に心地よい。――水はもう大方大丈夫になった。だが……濡れた衣服だけは、未だにダメだ。あの日のことを、思い出してしまう。

 ……益体もないことを考え出した頭を冷まそうと、私はシャワーの栓を止めた。ほう、と息をつき、バスタオルに手を伸ばす。

 タオルは暖かい陽の匂いがした。

 母が用意してくれたらしい部屋着に袖を通して、スカートを吊るし自室に向かう。クローゼットを開くと、錆び付いたかつての栄光は今もそこにあった。残酷なほど克明に、私の名前はトロフィーに刻まれている。その名前の主が、もう走れないことなど知らずに。


「……アキラ……あなたと、また、走れたら……」


 何もかも同じだった。僅かな差異こそあれ、技量も、努力も、功績も――受けた嫉妬も何もかも。それでも、彼は私が足を緩めるたびに、さらに速く駆けて行ってしまった。いつの間にか彼の背中はもう遠い光の中で、手を伸ばすだけ無駄な距離が広がっていた。

 空は未だ、暗いまま。

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