第二部14服喪

 ふと、ひっかかるものを感じた。

 いつもの夕餉時、アサの囁いた言葉にだ。

 「安麻呂どのと阿礼さまのなさっていた物語の書き付けに、詔が下りました。」

 二人が集めて書き付けていたのは失われつつある伝承だ。それ自体が特に問題になるようなものではない。

 ただ、あの御門がそこに詔を下し、後援するという事が気にかかる。

 何を考えているのだろう。

 あの書付は断片だ。物語は口伝以外では伝えようがない。だからすでに歌う声のない阿礼には、本当の物語を伝える事はできない。

 だから問題はない。ないはずだ。

 阿礼は真礼の理想の雛形だ。

 阿礼が声を失わない女で、猿女であれば、きっと理想的な猿女になれた。その、思い描く猿女阿礼こそが、真礼が目指し続けるものだ。

 だからこそ、こんな形で御門に触れられたくはない。

 その不快感はどうしようもないが、さすがにそれを理由に詔を妨げるわけにもいかない。もやもやとした気持ちでいるうちに、それどころでない事態となった。

 比売田の大刀自が薨じたのだ。


 真礼と阿礼の姉弟は比売田の大刀自に育てられた。二人を産んだ母が産褥で死んだからだ。真礼と阿礼は大刀自のお婆のもとで物語を聞いて育った。

 身内に死穢が出た場合、猿女は速やかに宮中を退出させられる。その死の知らせを受けた時点で、猿女も死穢を受けるので、はっきりと知らされるのは宮中を退出したあとだが、退出させられる時点で猿女本人も覚悟はしている。真礼が死穢を受けるのは養母の大刀自とあとは阿礼ぐらいだから、恐らくは高齢の大刀自であろうともわかっていた。

 死穢を受けた猿女は喪に服す間、里に下がる事になる。

 真礼は里に戻るどころか宮廷から出るのも出仕以来初めて、実に十一年ぶりの事だった。

 被衣かつぎをすっぽりと被り、四方に帳を下ろした輿で里に向かう。

 里は遠くない。

 それ程早く都を出たわけではなかったが、日の暮れる前にたどり着くことができた。堀を巡らし門番を置いた素朴な厳しさも懐かしい。

 大刀自の邸の敷地内まで輿は引き入れられた。輿から下りてとるものもとりあえず大刀自の部屋へ向う。

 大刀自のお婆は北を枕に寝かされていた。

 北枕は時に蘇ると言われて、死者はとりあえずそのように寝かせるが、もちろん滅多に蘇ってくるようなことはない。お婆も唇がすっかり白く乾いて、すでに黄泉路に入っている事は明らかだった。

 「ただいま、戻りました。」

 枕辺に座り声をかける。もちろんなんのいらえもないが、それでも仄かに気配が和らいだように思う。

 真礼はこの人に育てられた。

 阿礼と二人、母を失って引き取られ、お婆の膝でお婆の歌を聞いて大きくなった。

 お婆ももとは猿女であった人で、自分の子は産んでいない。お婆がなぜ自分たちを引き取ったのかを真礼は知らないし、もう永久に知ることは出来ない。

 久しぶりに見たお婆は縮んだように小さくなっていた。

 随分と老いて、本当に老婆としか呼びようがない。目尻の古い黥も随分と薄れてよれている。ただ真っ白な髪は豊かで、流れ落ちる水のように美しかった。

 涙は出なかった。

 生きて二度と会えない可能性が高いことは、お互いにわかって別れた。それが猿女というものだと、お婆が真礼に教えたのだ。

 お婆の死は静かで、そこに向かい合う真礼の心も静かだ。ぽつりぽつりと浮かび上がってくる思い出が、時折その静けさを微かに揺らす。

 そのまま真礼はお婆の枕辺に座し、次の日の昼に阿礼が現れた。


 その姿を目にして心臓が跳ねた。

 お婆の死の知らせに里に戻った阿礼が見たのは、お婆の枕辺に寄り添う真礼だった。

 美しい黒髪を背に流し、濃い藍の裙に濃い青の背子、まだらに浅葱に染めた被礼を肩にかけている。まだ喪服を身に着けていないのは、都から駆けつけたままの衣装だからなのだろう。

 真礼は美しかった。

 阿礼と同い年なのだから、もう二十八になるはずだが、もはや幾つとも知れない清らかさに満ち、全てを洗い流したように美しい。

 日に当たることがほとんどないのか、肌は透き通るように白く、ぬばたまの髪は艷やかに長い。黒目がちの目を目元の黥がきりりと引き締めている。

 唇はそれ程紅くなく、薄い。

 すらりと通る鼻筋と相まって、人の女と言うよりはどこか彫像めいた端正さだった。

 「阿礼?」

 阿礼が真礼に見入っているように、真礼も阿礼を見ていた。

 舎人の阿礼は日に焼けているし、体付きも細いがしっかりしている。今も男にしては小柄だが、真礼よりはかなり背が高い。

 自分たちは今も似ているだろうか。

 阿礼はふと、そんな事を思った。

 「こちらに。」

 呼びかけられて、頷く。お婆を挟んで真礼と向かい合うように座った。

 サキを失ってから、帰郷は間遠になっていた。丁度その頃から会う度にお婆が小さくなってゆくように感じるようになった。

 今、静かに横たわるお婆は、いつもかっちりと結い上げていた白髪を枕に流し、目を閉じている。その閉じた目元に古い黥を認めて、阿礼は不意にそれが黥である事を強く意識した。子供の頃からずっと見ていたせいで、お婆には当たり前に黥が入っているように思っていたが、そんなはずはなかった。お婆が猿女として出仕する時に、黥をいれたのだ。真礼と同じように。

 阿礼の目元に黥はない。

 阿礼は男で、猿女ではないからだ。

 猿女になることができないこと、成長と共に声を失ったことは、ずっと阿礼の悲しみだった。

 今も、その悲しみは確かにある。

 けれど、それはかつてのような身も夜もない悲しみではなく、静かに噛みしめる事のできるものへと変わっていた。

 サキを失った。

 そして、言葉を弔うようになった。

 それは猿女ではない男の阿礼の上にしか起こり得ないこと、なし得ない事だ。そんな一つ一つの事が、阿礼を少し変えた。

 変わらずにいることは出来なかった。

 真礼が静かに息を調える。

 そして放たれる、伸びる、声、声、声。

 これは弔いの歌だ。

 死者を慕い、その魂を追い、やがてそれを翼に乗せてどこまでも上ってゆく。

 釣り込まれて、歌いそうになって、阿礼は気づく。

 声が出ない。

 ただ、声が変わったというだけでなく、長く歌うことのなかった阿礼の喉は、発声しようとはしなかった。

 真礼の歌は白い大きな鳥のように、自在に天へと駆け上がる。

 阿礼はそれを見送る人のように、唇だけで歌を追った。 


 安麻呂が比売田の里にたどり着いたとき、すでに大刀自の葬儀が始まっていた。麻の喪服を纏った真礼が朗々と歌い上げる。やはり麻の喪服を纏った阿礼は、静かに側に控えていた。

 並んだ二人はもう似ていなかった。

 宮中の奥深くに仕える猿女と、宮廷の雑用つとめる舎人では肌の色から違う。いくら双子とはいっても男女差という物もある。

 でも、やはり似てもいた。

 ふとした仕草、顔を上げるようす。そんなちょっとしたところが驚くほどに似ている。離れて暮らした十一年が信じられないほどに。

 お婆の遺骸を納めた瓶を埋める作業は、安麻呂も阿礼を手伝って加わった。

 葬儀はつつがなく終わった。

 お婆が長い殯を望まなかったので、瓶棺はすぐに地に埋められた。喪に服す間、真礼は里に滞在する。

 都で三人が話せる機会もあるのではないかと、そんな気持ちで出仕してから十一年。結局三人が揃って顔を合わせる事が出来たのは、比売田の里だ。随分と遠回りをしたように安麻呂は思う。

 「何やら伝承を集めているのですって?」

 もっとも重い服喪を必要とする真礼は、葬儀が終わっても麻の喪服を纏っている。猿女である彼女は死穢が払われる一年後までは宮中に戻ることが出来ない。

 阿礼は数日を里で過ごした後は、都に戻ることになっていた。出仕はしばらくしないが、安麻呂が伝承を書き取る助けをするぐらいは問題ない。詔が下った以上、できるだけ速やかに伝承を書き取らねばならないのだ。

 「詔の下るようなこととは思わなかったけれど。」

 真礼の口ぶりを聞けば、必ずしも良くは思っていない事がわかる。

 真礼は猿女だ。

 猿女は全てを口伝で伝える。

 そうして代々言い伝えて、太古からの記憶を継いできたのだ。伝承を集めては書き付け、まとめていくようなやり方は不躾に思えたとしても不思議ではない。

 「このままでは失われるものも多い。俺はそれらにせめて墓を作りたい。」

 阿礼は果敢に真礼に反論した。

 「墓守は比売田の仕事ではないわ。」

 真礼は渋った。安麻呂が見ている限りでは伝承の書きとめそのものよりも、それが詔のもとになされることに抵抗があるようだ。

 「では、比売田を名乗るまい。」

 しばらくの議論の後に、阿礼が言った。

 「なんと名乗るの?」

 真礼の問に少しだけ考える。

 「稗田はどうだろう。比売田に近いが比売田ではない。」

 「名を捨てて、一族の仕事からも外れるのね。」

 阿礼が真礼の視線を真っ直ぐに受け止める。

 「誰かがやらなければならないと思うんだ。なら、俺がやろうと思う。」

 書き付けを始めたのは安麻呂だ。だが、真礼は安麻呂に何かを問おうとはしなかった。議論はあくまで真礼と阿礼の間で行われた。

 結局、数日後安麻呂は阿礼を伴って都に戻った。

 この日から阿礼は稗田阿礼と名乗りを変えた。

 

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