第二部12詔
「おもしろい事をしている者たちがいるようです。」
讚良がそんな話をした。
様々な物語を聞き集めている者がいるらしい。
「このところ、里から都へ移る者が多うございましたから。忘れられる前に我が里のいわれを残しておきたいと言うような者に、話を聞いてまわっているようですわ。」
災害が続くと小さな里は立ち行かなくなり、生き残った里人は里を捨てるより他にない。都へ移って来る者も多く、結果的に貧民窟が形成される。それは大海人の治世下での小さくはない問題だった。
そのように里を失った者たちから、物語を聞き覚えるのが得意な舎人が話を聞き、それを文字に堪能な者が清書しているのだという。写本も細々と出回っているらしい。
「ほう、それは見てみたいな。手に入れられそうか。」
大海人が興味を示すと、讚良は一巻の書物を取り出した。
「きっとそうおっしゃるかと存じまして。他にも結構出回っているようですけれど。」
それは竹簡を繋いだ素朴な作りだったが、墨痕は黒々と美しく、読みやすい字で書かれている。簡単に読み流すと、熱田に祀られる神剣に、まつわる物語がまとめてあるのがわかった。
「これはどこから?」
「女官に求めさせました。女官は田部の某から譲り受けたそうでございますわ。」
田部、という名にはそれなりに納得できた。大陸渡りの学問には特に明るい一族だ。
「その田部の某がこれを書き留めているのか。」
当然そうであろうと思っての問だったが、讚良の答えは違った。
「清書する中に田部氏の者はいるようですわ。でも、中心になっているのは多氏の嫡男のようでございますよ。」
多氏は楽を専らとする一族だ。だがそう言えばその嫡男は譜の解析に血道を上げていた。筑紫の太宰府にいたとかで、大陸の知識に明るかったはずだ。何かの折に幾度か話した記憶もある。名は何だったか。
「安麻呂か。」
大海人は記憶からどうにかその名を引き出した。
「はい。そして物語をよく覚えるという舎人は、比売田氏の者と言うことです。」
舎人と言えば御門の配下だが、大海人はそのような者がいることを把握していなかった。いつものことながら、どこからか情報を探し出してくる讚良の手腕には下を巻くばかりだ。
「比売田氏にそのような舎人がいたか。」
比売田、ということは猿女真礼と同族ということになる。男は猿女にはなれないから、猿女の慣習からある程度自由なのかもしれない。もちろん猿女になれない男は物語の伝承を正式に受けてはいないだろうが、いくらかでも聞き知っている可能性は高い。
悪くない、と思った。
いずれ氏族の伝承をまとめ、天皇を主体とする史書をまとめる必要はある。うまくいけばこれは、その良い端緒となるだろう。
「多安麻呂を召せ。」
大海人の言葉に讚良は静かに微笑んだ。
「なにやら面白い事をしているようだな。」
突然御前に呼出された安麻呂は頭を垂れて御門の御言葉を聞いた。
「よい、面を上げよ。直答を許す。」
阿礼と共に集めた物語に、御門は興味を持たれたらしい。お手元にあるのはどうやら史の作った写本のようだ。
「これを思いついたのはお前か。中々よくまとまっている。よくこれだけの伝承を集められたものだ。」
「某だけではとても。比売田阿礼の力無しにはなし得ぬことです。」
あらゆる伝承、物語を吸い取るように覚え、自分の知る他の物語と照らし合わせて語ってくれる阿礼なしには、そもそも成立のしようがない。
「阿礼…それが比売田氏の舎人の名か。ん、それはもしや猿女真礼の…ああ、あの男か。」
何に納得あそばしたか、御門が深く頷かれる。
「はい、猿女真礼の双子の
安麻呂が答えると、御門はいっそう深く頷かれた。
「どうりで、よく似ておる。」
どうやら御門は阿礼の顔を覚えておいでらしい。
「比売田の者がよく、物語を書き留めるのに力を貸してくれたものだ。」
猿女の物語は口伝。猿女でなくとも
「阿礼は書き付けを墓と呼んでおります。」
安麻呂は正直に答えた。それを罰する御門とは思わなかった。
「ほう、墓とな。なんの墓か。」
案の定、御門は興味深げに御下問あそばす。
「言葉の。あるいは物語のでございます。」
放っておけば消えてしまう伝承を、書きつけるだけで救う事はできない。そこには伝えられてきた、節回しも声音も残らない。それでも伝承があったという事だけは残すことができるのだ。それが阿礼の言う「墓」だった。
「墓を建てても死者は蘇りますまい。ですが野に朽ちさせるのに比べれば、死者がかつて生きていた事が残るだろうというのです。」
「ふむ。」
御門はしばし黙考されると、傍らの文箱から筆を取り、さらさらと書き付けられた。木簡や竹簡ではない。大陸渡りの高価な料紙だ。
「詔である。」
その声に打たれるように安麻呂が再び頭を垂れる。
「多安麻呂、舎人比売田阿礼と共に我が国の
詔は下された。
安麻呂の酔狂は、正式に国の事業となったのだ。
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