第二部10額田女王

 「こんな神がおられるとは知らなかったな。」

 安麻呂から借りた書き付けを読みながら面白そうに史が言った。史は手が空くと気に入った物語を写し始める。今日はガガイモの船で海を渡るという小さな神の話を写しているらしい。

 史は写した物語を周囲の人々にも読ませているようで、時には前に写した物語に続きはないのかと聞いてくることもある。どうやら気になるからと続きを頼まれたりもしているようだ。

 ただ、伝承を書き取っているものなので都合良く続きまでわかるものばかりではないのだった。

 この史という男はどういう男なのだろう。安麻呂は折に触れてそんなことを思う。ただの舎人と言うには、あまりに学識があるのだ。

 単に知識があるというだけではなくて、例えば安麻呂が大陸の都の絵図を見た時の話をすれば、ピンとこないらしい阿礼に見せるために、その都の簡単な地図の写しを持ってきたりする。

 阿礼が物語を書き留めることを「物語の墓を作る」と言うのに、素直に賛意を示したのもそうだ。

 「そう言えば大陸でも史書を作るのは次の王朝なんですよ。確かに墓っぽいですよね。」

 安麻呂は筑紫で数年を過ごした自分が、見聞の狭い人間でないことは自覚している。大陸の言葉もある程度わかるし、同時に仮名の扱いにもそれなりに習熟している。史書も楽譜も地図もそれなりの数に目を通してもいる。

 だが、史は安麻呂以上に書物に詳しいようなのだ。

 どこでそれほどの書物に触れたのだろう。書物というものは至って高価なものなのだ。数多く蓄えることができる者は限られる。例えば多氏は楽の一族なので楽譜こそ多く写して所持しているが、それ以外の書物はそれぞれが個人的に筆写ものが多少ある程度だ。

 清書の手伝いだけでなく、木簡や竹簡にする板や墨をさりげなく持ち込んだりもしてくれるので、実はずいぶんと助けられている。

 ただ、そういう全てが、史が単なる舎人だとすると不自然に思えるのも事実だった。

 安麻呂自身が今日、清書しているのは、少し前に阿礼が話してくれた高天ヶ原の話だ。

 阿礼は最近、少しずつ比売田の伝承について話してくれるようになった。もちろん歌ってはくれないし、話の筋を教えてくれる程度だが、豊かな比売田の伝承は他の小さな伝承を理解する上でとても役に立った。話によっては少しずつ、一連なりの形になりつつある。

 例えば今、史が読んでいる小さな神の話は元々サキの里の伝承の中にも残っていたものだが、意外なくらい様々な土地に小さな伝承を残している。温泉や医薬に関わるものが多く、それらを司る神なのだろう。

 一緒に伝承に現れる神は国を治める神で、稚戯のたぐいまで時に伝承されているのは面白い。確かに足跡を追ってみたくなる神々だ。

 史はこういう各地に足跡を追える物語が特に好きなようで、白鳥になったという王子の伝承なども集中的に借り出して写している。

 「そういえば面白い話を聞きました。」

 史が思い出したように話す。

 「あの白鳥の王子の剣が熱田にまつられているでしょう。」

 かつて天孫が高天ヶ原から持ち来たったという剣だ。

 「あの熱田の社がなにやら剣の写しを作っていたそうですよ。」

 「ふうん。何に使うんだろうな。」

 安麻呂は清書の手を止めずに答えた。その時はただそれだけの話で終わった。

 

 久しぶりに見かけた額田は、相変わらず艶やかに美しかった。

 紅を含んだ唇は見るからに柔らかそうで、長い睫に彩られた目元からは色気が滴り落ちるよう。豊かな胸乳も腰回りも、歩むごとに衣装ごしに淡くその輪郭を現す。重ねた衣装越しに裸形を透かし見たような眩しさに、大海人は目を細めた。

 「お久しぶりにございますわ、御門。」

 御門と呼び掛けるその声は、かつて大海人の名を囁きながらしなだれかかって来たときと同じ、絡めとるような甘い響きをおびている。

 葛城を喪い、十市を喪った額田は、公の席に出てくる事がめっきり減った。それでも今日のような歌会には、当代きっての歌詠みとして欠かせない。

 艶麗な容姿。

 豊かな歌の才。

 その歌を朗々と歌い上げる声。

 額田はその存在で、人々を魅了する。

 それは猿女の真礼に似るようで、まるで違う印象を与える。 

 真礼が聖なら額田は俗。

 真礼が静なら額田は動。

 真礼が清なら額田は濁。

 真礼が神々の高みへと誘うように、額田は人の心に降り立ち入り込んでくる。

 そのどちらにも、抗い難い魅力のあることは大海人も認めているが、天皇すめらぎに全てを集約していこうという方針にとってはどちらもが等しく邪魔だ。

 「葛野は息災か。」

 歌会が終わり額田が去ろうとする間際に、大海人は初めて言葉をかけた。夭逝した娘の忘れ形見に情を感じたからではない。額田がその子をなんと呼ぶのかを聞きたかったからだ。

 「はい。元気に暮らしておられますよ。」

 しかし額田はその子をなんとも呼ぶことはなく、それだけを答えて辞した。

 皇子か王か。

 葛野は十市と大友の子だ。

 大友の即位を認めれば皇子だが、認めなければ王になる。額田がその子をどう扱っているのかは気になるところだ。

 大海人は大友を廃していない。

 大友の即位自体を認めていないからだ。

 「相変わらず美しい方でございますね。」

 いつの間にか讚良が隣に立っていた。

 「俺とたいして年は変わらんはずなんだがな。」

 自分は歳相応に老けたと思う。そしてそんな自分を厭うてはいない。後悔も失敗も重ねながら、それでもその時々に考え抜いて決めた歩みなのだから。

 「やはり葛野どののことは皇子みことして扱っておいでなのかもしれませんね。お言葉を崩されませんでしたもの。」

 讚良に言われて、いまさら額田が我が孫に言葉遣いを崩さなかった事に気づいた。額田自身が女王なのだから、葛野が王であるのならそこまでへり下る必要はない。

 いつもなら簡単に気づきそうなそんな事に、讚良に言われるまで気づかなかったあたり、大海人も額田に調子を狂わせられていたのだろう。

 

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