第二部9

 久しぶりに戻った里はいつもと同じ景色だった。その変わらない景色に、阿礼は安堵のため息をつく。都のような目まぐるしい場所とは時間そのものが違っているかのようだ。

 きっとここは変わらないのだろう。

 サキがいなくなっても、いつか阿礼がいなくなっても。

 お婆に挨拶をして、里をぶらつく。変わらない景色の中のそこここに、幼い阿礼の影が宿る。

 七つになるまでの、真礼と無心に歌った日々。

 歌を禁じられて、それでも隠れて歌った森。

 ついに声を失った悲しみ。

 真礼の出仕祝いの宴で、目尻に消し炭で線を入れて映し見た水瓶。

 サキを失ってからついぞ近づくことのなかった里に戻って来たのは、阿礼の心に迷いが生じているからだ。

 安麻呂が書きためている物語は、かなりの量になっている。それらの物語は比売田の物語でつなげば、一つにできるものも少なくない。全て集めてつなげる事ができれば、きっと壮大な一つの物語になるのではないかとも思う。

 ただ、比売田の物語は猿女のものだ。

 それを例えば概要だけでも、阿礼が安麻呂に話していいものだろうか。

 そして同時にこうも思う。

 比売田の膨大な物語を決して失うことは出来ない、と。

 物語のまことの伝承は口伝によってのみなされる。

 そんな事は当たり前のこととして、阿礼にも刻み込まれているけれど、同時にそれがあまりに儚いものであることも、今ではよくわかっている。

 なるほど比売田は古い一族だ。

 伝承にかけては人後に落ちないし、そのために常に猿女の候補者を育ててもいる。

 でも、人は死ぬのだ。

 何かの、例えば山津波や地震で伝承者が失われれば、伝えてきたすべてが失われてしまう。それが十分にあり得ることなのは、安麻呂ととも物語を集める内に思い知っていた。

 文字で、生きた言の葉は残せない。

 そこに残るのは墓だ。

 かつて誰かが歌った物語の、亡骸をとどめるだけのもの。

 その確信はいよいよ強くなっている。

 けれど、墓は決して無意味なものではない。

 無意味なのならなぜ人は、王のために巨大な墓を作るのだろう。死者を埋めた場所を記すのだろう。忘れたくないものを忘れないために、それは有用なものなのだ。

 ふと、赤子を抱く女が目に入った。

 あれはサヨだ。

 確か猿女の候補であったはずの。

 新しい猿女が出仕したと聞いたのに、なぜサヨがここにいるのだろう。

 「まあ阿礼さま、お戻りだったんですか。」

 サヨの方でも阿礼に気づいて寄ってくる。

 ふっくらとした頬をしたサヨは、穏やかで幸せそうだった。

 「ああ、猿女は辞退したんです。私は昔から子が生みたかったから。」

 もの問いたげな阿礼の様子に、自分から答えて笑う。

 では、この子はサヨの子なのだろう。白い柔らかそうな肌をした子は、良く肥えていた。

 「男の子?、女の子?。」

 「女の子です。サナと名付けました」

 赤子らしい淡い色の髪がか細く揺れている。サナは気持ちよさそうに眠っていた。ふわりと甘く乳の香が香る。

 「良い名だ。それに丈夫そうな良い子だ。」

 そっと触れると細い髪や肌の柔らかさが指に心地いい。

 「しっかり育って良い娘になれよ。」

 サナの小さな手に触れると、サナの手が阿礼の指をぎゅっと握った。


 真礼が歌う。

 新米の猿女である沙耶と紀里が後をさらう。年若い二人は猿女とはいっても、まだ見習いという意味合いが強い。里で仕込まれていたとは言っても、まだまだ身体の清めかたから指導を入れなければならなかった。

 朝、目覚めてまず身を清める。

 口や手は水だけでなく、塩でも清め、禊の後であっても腰から下に触れてはならない。

 全ての所作、口上、そして伝承は、かたく口伝でのみ伝えられる決まりだ。完全に間違いなく身に沁みるまで、幾度でも繰り返しさらう。

 髪はきっちりととかして下げ、装束にも化粧にも、場合に合わせて決まりがあった。

 一つ一つの手順を重ねることは、自分を整え清めることだ。

 清めて、清めて、清めて。

 あらゆる穢れを取り払って、ただ、物語の器となって。

 真礼は歌う。

 物語は鮮やかな生命を持って舞い上がる。

 天へ、天へ、天へ。

 神々のところまで。

 伸びてゆく真礼の歌を追いかけて、沙耶と紀里が歌う。

 二人は決して気づかないだろう。

 真礼もまた、自分以外の歌を追いかけているのだなどと。

 阿礼ならば。

 阿礼が猿女であったなら、どれだけの高みにいただろう。

 その、遥かな高みを目指して、真礼は歌う。

 全てをそぎおとした真礼の中に残るのは、いつでもただ阿礼だけだ。


 猿女としての勤めを果たす間ただそれだけに集中する分、自室に下がった真礼には様々な事が乗ってくる。里のこと、帝や朝堂の動向。いつものように囁かれる侍女たちの言葉の中に、真礼の気をことさら引く一言があった。

 「額田女王が熱田の剣を見つけたと。」

 熱田の社に納められていたのは天孫が高天ヶ原から持ち来る宝剣。それは伊勢の社に一度は納められ、東国を平らげる折に、将たる王子に授けられた。王子はそれを尾張の宮簀媛に預け、王子の死後は宮簀媛が熱田に社を建てて剣を祀った。

 その剣が熱田の社から盗まれたのは、先々帝であった葛城大王の即位した頃のことだ。盗んだのが新羅僧であることや、その僧が船で逃走中に嵐にあって難破し、帰国できずに終わったことまではわかっていても、剣そのものの行方はわかっていなかった。

 責を問われる事を恐れた熱田の社が、盗難を公表しなかったということもある。今も表向きは剣は熱田に祀られていることになっているのだ。

 その剣のありかを、額田女王が突き止めたのだという。

 額田女王としては、いずれ孫の葛野王子を皇位へと押し出すてこにしたいのだろうが、よくも探しだしたものだ。

 そしてその話を真礼の耳に入れてくるのは、猿女にも葛野王子の後押しをしてほしいということなのだろう。

 この国のあり方を根本から変えようかという帝のやり方には反発を感じている族も多い。特に祝と呼ばれる者たちにとって、神の有り様祀り様に踏み込まれることへの忌避感は強かった。同じ祝の一人である額田女王の孫がその強引さを改めると言うのなら、支持する者は多いだろう。剣を額田女王が押さえれば、支持する理由にも困らない。

 「女王には、心に留めておきましょうと。」

 真礼の囁きにユウが頷いた。

 侍女たちの囁きには、阿礼の動向も含まれる。阿礼にはサキを失って以来、まだ女を近づけたらしい気配はない。むしろ最近は多氏の安麻呂と一緒に、絶えかけた族の伝承を聞いて回っているらしい。

 最近の災害続きに失われる伝承の多いことには真礼も心を痛めていたので、阿礼の気持ちは良くわかった。

 阿礼の聞き覚えたそれらの伝承を、安麻呂が何やら書き留めているようだが、阿礼は猿女ではないのだし、その程度ならたいした問題にもならないだろう。

 真礼には他にも考える事があったし、傷心の阿礼がそれで慰められるならという気持ちもあって、特にその事を問題視はしなかった。

 

 

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