第二部7死者の輪郭

 「やたらに死んだ。みんな壊れた。」

 昼間快活だった劉は、酔うと泣き出した。

 三年と言えば長いようで、全てを過去に出来るというほどの時間ではない。気を張っている間はともかく酒が入り、旧知の安麻呂を前にして、心の緩みも出たのだろう。

 やはり、地震が起きた直後の太宰府は大変な有様だったらしい。政朝の建物も幾つも崩れ、なまじ立派な建物だっただけに、下敷きになると助ける事は難しかった。

 「だが、本当の地獄はそのあとだ。」

 崩れた町のあちこちで炎が出た。

 炎はたちまち広がって、貴賎の別なく町を焼いた。

 「助けてくれって悲鳴が聞こえても、どうすることもできん。」

 酔いに揺れる劉の目が何かを見据えている。おそらく安麻呂には見えないものを。

 「俺は逃げた。知った声も、伸ばされた手も振り切って。どうしようもなかった。どうしようもなかったんだ。」

 想像しようとしても、想像する事ができない。それは想像が及ばないからというよりも、辛すぎる想像に心が臆するからだ。

 「全部燃えた。生きた人間ごとだ。本当にどうしようもなかった。」

 頭を抱えて突っ伏したまま、劉は酔いつぶれた。

 安麻呂は予備の綿入れを劉にかけてやった。

 酒や肴を盛っていた膳を端に寄せて灯りを消し、自分も綿入れを被り、横になる。

 暗い中で横になっていると、しんとした冷気がしみて来る。

 安麻呂とて、都を襲った二度の地震を体験した。宮中はともかく、市井では火事もあり、それによる死者も出ていたはずだ。

 劉の嘆きは劉だけのものではない。同じ嘆きや悲しみを知る者は、きっと都にも多くいることだろう。

 地震は人知の他のものだ。

 人はただ恐れ、神に祈るより他にない。

 これ程に続けば神を祀る者共の祀りや、ひいては御門の器量が問われることはむしろ道理だ。

 そうでなくとも乱という非常手段を用いて即位した御門の敵は、決して少なくない。

 隙を見せれば不満や反感はいつだって吹き出してくる。それは決して簡単に抑えきれるものではない。

 じわりとそんな不満の声がすでに湧き出していることは、安麻呂も知っている。行き場のない怒りや悲しみは、結局のそんなところに行きつくより他にないのだ。

 そして銀鈴。

 一番気になっていた旧知の行方不明は、安麻呂の心を揺らした。

 奔放で、そのくせ嫉妬深かった銀鈴。今思えば彼女は、きっととても寂しがりだった。

 それでも今なら受け止められたかと問われれば、そんな自信はないと言うより他ない。

 きっと彼女は今そばにいても奔放で嫉妬深いのだろう。安麻呂はまた振り回されてヘトヘトになるだけだ。

 そんな事はわかりきった上で、それでも彼女程に安麻呂の心を占めた女はいない。その彼女の生死が確かでないことは、死んだとはっきりわかるよりも、ずっと胸を騒がせられた。

 生きていればきっと今も、誰か男と共にいるだろう。どこまでも自由なようでいて、銀鈴という蝶はいつでも男という止まり木を必要としていた。幾つもの止まり木を気ままに渡ってゆくけれど、止まり木なしで飛び続けられるほどの強い翅は持っていない。

 生きていてほしい。

 心からそう思う。

 劉に言われるまでもなく、そんな可能性はほとんどないとわかりきった上で。

 同時に、会いたいと強くは思えない自分がいる。

 今の自分はもう、筑紫でのように銀鈴に振り回されることは出来ない。銀鈴を一番に扱うことは出来ないのだ。

 劉が大いびきをかきだす。

 片腕を枕に安麻呂は寝返りをうった。

 闇の中に響きわたる大いびき。

 酔っているわりに妙に頭が冴えて、これでは眠ることなどできそうにもない。

 眠らなければ明日に響く。

 安麻呂は少し身を縮めるようにして、強いて目を閉じた。


 さらさら

 きらきら

 微かな音に、阿礼が微笑む。

 微笑むけれど、目は開けない。

 死者を生者が見ることは、死者にはじを与える事だ。だから決して目を開けず、気配だけを聞いている。

 サキ

 声には出さずに名を呼ぶ。

 サキがいる。

 その気配がする。

 それがうれしい。

 わかっている。

 死者は黄泉へと去るのが定め。サキがここにいるのはきっと、阿礼があまりにサキに執着しているせいだ。

 そんな時、たいていは生者が死者の定めに従う。死者は黄泉へと去らねばならず、どうしても死者を手放したくないのなら、一緒に黄泉へ赴けばいい。

 けれど、サキはどうやってか、黄泉に去らずにとどまっている。

 サキと一緒に逝くのなら、構わないと思っていたのに。

 さらさら

 きらきら

 サキは阿礼の贈った貝殻の簪を身に着けている。その薄い小さな貝殻の触れ合う音が、ほのかでとりとめのない死者の気配に、あるかなしかの輪郭を与える。

 安麻呂の手引で手に入れた高価な簪は、サキの目に触れることさえなく終わった。それは折れたサキの櫛や残ったサキの衣とともに、埋めるべき亡骸のないサキの墓に埋まっている。貝殻の簪は、亡骸と同じように見つからなかった。

 その簪はやはりサキが持っていたらしい。それは阿礼が手ずからこしらえた簪だったので、サキと共にあるのだと思うと嬉しかった。

 静かに気配が遠のいてゆく。

 サキはいつも静かに現れ、そのまま静かに去ってゆく。

 サキの気配の名残を愛しみながら、阿礼もまた静かに眠りに落ちた。

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