第二部6祝

 真礼が一日の役目を終えて浄衣を脱ぐと、アサがそっと押し頂くように受け取った。カヤが替えの衣を差し出す。

 着替えて座すと、ユウが食膳を運んで来る。

 毎日の決まりきった手順のための言葉は、真礼にも侍女たちにもいらない。彼女達の間で密やかに交わされるのは、もっと別の言葉だ。

 「御門が律の研究のために、大宰府の書を調べさせておいでです。」

 「美津さまはお目の調子がはかばかしくないご様子。」

 美津というのは現役の中では最年長の猿女だ。もう四十に届こうと言う歳で、最近は健康上の問題がかなり増えていた。

 「そう。今年限りで退かれるかもしれないわね。」

 美津と真礼の間にはもう一人、亜耶という猿女がいるが、大人しい質なので真礼を抑えて猿女の筆頭たらんと考えるとは思いにくい。美津が宮廷を退けば、猿女の筆頭の役割は名実ともに真礼となるだろう。

 問題は新しく上らせる猿女を誰にするかだ。現在の三人でもいささか少ないのに、二人ではどうにもならない。

 里で物語を習う少女たちを思い浮かべる。

 サヨはそろそろ十四、五になるはずで、順当に行けばまず候補の一人めだ。

 あとはキリとサヤが十二ほど。

 できれば二人まとめて上げたいが、同い年のどちらを選ぶかが考えどころだ。

 それに、最年長のサヨにも不安がある。サヨは物語よりも娘達が皆で作業するときなどに歌う、恋歌の方を好んで歌うのだ。

 猿女の本分はあくまで伝承の口伝。

 真礼が里を出て随分になるから、何かは変わったかもしれないが、あのままの調子だと、はたしてどの程度ものになっているかこころもとない。

 「大刀自さまに早めにお知らせを。」

 すでに年の瀬も近く、どちらにしても大刀自さまのご判断におまかせするよりない。

 アサが頷いて、そっと出て行った 

 真礼は厳しく不浄を断つ身だが、侍女たちは宮の外にも出て行く。出ていけば里のうかみと接触することができた。侍女と諜が真礼の耳目であり、手足だ。

 朝廷に出仕する氏族の動向。

 筑紫の地震のその後。

 食事の間にも侍女たちの話は続く。

 「額田女王ぬかたのひめおおきみさまでございますが。」

 ユウがいっそう潜めた声で囁く。

 「そう。あの方も頑張っておられるわね。」

 額田は言霊の使い手、歌人だ。

 先の御門の妃であり、今の御門の元妃でもある。猿女の様に不浄をかたく忌んで俗世を離れることなく、むしろ俗世にあってこそ活きるはふり

 特に連絡を取り合うようなことはないが、祝同士動向は把握していた。

 額田が養育している孫の葛野皇子は乱に倒れた先帝の嫡子であり、今上と先々帝の孫でもある。血統から言えば皇位をついでもおかしくない皇子だ。 

 もちろん今の情勢ではそんな事は望み難いが、貴重な存在であるのは間違いない。動向をおさえておくのは当然だ。

 さらに細々とした報告が続く。

 「御寝あそばしませ。」

 床に入るまでには一通りの話を耳に入れる事ができた。

 考えるべきことは何時でも多いが、考える事のできる時間は必ずしも多くはない。神に仕える時間は、厳にそれ以外の思考を慎まねばならないからだ。

 仕える神と、伝える伝承。

 ただそれだけで自分を満たす。

 その時猿女である真礼はただ、器であらねばならない。

 連綿と伝えられたものを受け、ただそれだけで満たされた器。

 そうでなくてどうして正しい伝承を伝えることができるだろう。

 つとめを終えて、眠りに落ちるまでの時間が、真礼が真礼として思考を許される短いひとときだ。

 阿礼。

 考えなければならない様々な事に思いを巡らす内に、じわりと沁みて来るように阿礼が浮かぶ。今日は宿直の筈だ。同じ宮中のどこで夜を過ごしているだろう。

 さらにじわりと眠りが沁みて、真礼の思考は眠りの中へと溶けていった。


 律令の制定は、始めたばかりですでに暗礁に乗り上げている。焦ってどうなるものではないとわかってはいても、苛立ちはどうしようもない。

 大海人の手元には何巻もの竹簡が積まれているが、内容は痒いところに手の届かないもどかしいもので、満足からは程遠かった。

 資料も多くはないが、それ以上に律令を十分に理解した人材が少ない。乏しい資料を拙い知識であたっていれば、得る事のできるものも少ないのが道理だ。

 一刻も早く、強い国の形を整えたい。

 大陸から海を隔てている分、攻められ難いのは確かだが、その事に胡座をかいているようでは、いずれ滅びる事になるだろう。

 天皇を中心とする国造りこそが、この国を救う道だ。

 その強い確信が、大海人を動かしている。

 筑紫の地震で大宰府に積まれていたであろう多くの書籍が失われたのも痛い。残った文物は船で難波に運ばせたが、何もかもが混ざってしまって、まず整頓から始めるより他になかった。めぼしい書籍が見つかると集めさせているが、こちらも量、質共に乏しい。

 渡来した外国人を招聘しようにも、これも地震で数が減り、あるいは地震を恐れて大陸に戻ってしまっている。

 ―神は外国の祀りをいれようとする御門のなさりように、怒っておられるのではないか。

 そんな言葉が密やかに囁かれている事を知らない大海人ではない。

 相次ぐ地震や大祓の失敗は、そんな風な囁きに奇妙な根拠を与えている。

 地震はともかく、大祓の失敗は何者かの差し金だと大海人は思っていた。

 大海人の娘であり大友の妃であった十市の急死と、それに続く斎宮の焼失。

 急病や落雷によるものと言う話で一応収まっているが、そんなわけがない。十市の死は毒殺であり、斎宮の焼失は放火によるものだ。

 問題は誰が、という事だが、中々容疑者を絞り込む事は難しかった。

 ただ、大海人の中で十市殺害の容疑者は固まりつつある。思いついたときは大海人もまさかと思った。さすがに信じたくはないと今も思う。

 額田女王ぬかたのひめおおきみ

 亡き兄帝の妃の一人であり、大海人のかつての寵姫。そして十市を産んだ母。

 額田もまたはふりの系譜を引く女だ。言霊の使い手であり、御門に霊威を添える女。

 かつて彼女を兄に奪われた事は大海人の痛手だった。

 姉の鏡女王が兄に、妹の額田が大海人にという事のはずだったのに、額田の名が高くなったことで兄に奪い取られたのだ。鏡は兄の寵臣であった藤原鎌足に下賜され、いつの間にか額田こそが兄の妃の一人と言う事になってしまった。


 熟田津に船乗りせむと月待てば

     潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな


 そうだ、決定的だったのはあの歌だ。

 あの歌が、額田を兄に奪われるきっかけだった。

 それに、今にして見れば。

 額田は黙って奪われるような女ではなかった。額田は納得ずくで兄を通わせたのだ。もしかしたら額田の方から誘ったのかもしれない。そして額田が大海人から兄に乗り換えた理由なら想像が付く。

 権力を握り、皇位に近いのは兄であったという事。

 それから、兄には位の高い妃から生まれた皇子がいなかったと言う事。

 兄の皇后おおきさきであった倭皇女は石女うまずめだった。

 蘇我氏出身である讚良の母、越智娘おちのいらつめの産んだ皇子は夭折し、姪娘めいのいらつめは皇女しか産んでいない。女王の額田が皇子を産んだなら、有力な大兄となっただろう。

 (もしも讚良が皇子だったら、こんな事は何も起こらなかったかもしれない。)

 額田は夫を取り替えることなく、十市を妻とした讚良が円満に位を継いだかも知れない。

 結局額田は皇子を生むことはなく、ほとんど独断で十市と大友の婚姻を決めた。

 十市は哀れな娘だと思う。

 けれど十市の事を思う時、母の額田への忌々しさが先に立つのも事実だ。

 殊更美貌というわけではないのに、気がつくと雁字搦めに絡め取られていることに気づく。額田はそういう女だった。

 様々な一族に血を交えながら連綿と続いてきた祝の女の強かさを、凝縮したような女とでも言えばいいのか。

 美しさでいえば娘の十市の方がずっと美しかったが、母に比べて不思議なくらい影が薄かった。

 考えて見ると十市が父と夫の板挟みになりながら、どんなふうに過ごしていたのかすら知らない。十市の生んだ葛野皇子の顔さえ朧だ。いずれ皇子ごと誰かと再婚させるつもりではいたが、まだ具体的な話にはなっていなかった。

 十市は大友の正妃だった。

 大海人は認めていないが、大友が即位していたなら皇后の立場になる。

 例外はあるが皇后は再婚しない。場合によっては即位の可能性もある立場だ。

 だからこそ、大海人は十市に婿を取るつもりだったのだ。十市が他に夫を持てば皇后であることは否定され、その子の葛野の立場も下がる。大友派が再起しようとしても、利用し辛くなるはずだった。

 結局十市は大友の正妃のまま死に、葛野の立場も守られた。

 いずれ、問題になるかもしれない。

 葛野は今、祖母である額田に養育されているはずだ。それ自体望ましい状態ではないが、手を出す隙もない。

 忌々しく思っても静観するより他になかった。

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