第二部5銀の鈴
「安麻呂、安麻呂だろう。」
声をかけられて、安麻呂は振り返った。
「劉、劉じゃないか。」
そこにいたのは大陸から渡ってきた商人の劉だった。赤ら顔に濃い髭と眉が目につく風貌で、本人は昔の王朝の後裔などと称しているが、怪しいものだと安麻呂は思う。言葉がむやみと流暢なのが一層胡散臭い、そういう男だ。
大陸から運ばれて来る荷を仲介することを主な生業にしていたが、頼まれれば大抵のことはこなす。
「無事だったのか。いつこっちに来た?」
こっち、と言っても飛鳥ではない。筑紫の物品の運び込まれている難波宮だ。筑紫にいた劉はおおかた物品と一緒に来たのだろう。
「まだ三日めだ。この間の荷に付き添ってきた。」
今運ばれて来ている荷は、地震の後に大陸から運ばれた物もあるそうで、対価の必要なものもあるのだという。
「俺はその対価を受け取りについてきたのよ。」
対価についての交渉はすでに始まっているそうで、今は朝廷の答えをまっているらしい。
安麻呂は漏れ聞こえて来るだけだった旧知の消息を、ようやく劉から聞くことができた。
「飯炊きの
胡姫の朱華と翡翠は無事。胡蝶はだめだった。
「銀鈴は?」
実はずっと、一番気になっていた消息を切り出す。
「銀鈴は、わからん。」
劉はちょっと眉をしかめた。
「いまだに全く見つからんのさ。船に乗った形跡もないし、死体も見当たらん。実は朱華は地震から何日もたってからひょっこり現れたんで、銀鈴の奴もどっかにしけこんでるんじゃないかって言うやつも多いんだが。」
確かに銀鈴にはそんな風に思わせられるところがあった。実際にひょいっといなくなってしれっと戻ってくるようなことを、何度もした事がある。
だが、もう三年近い。
筑紫の大宰府は確かに人も多く盛んな
他にも知人の消息を幾つか聞いたが、お互いいつまでも立ち話しているわけにもいかない。難波にいる内に酒でも飲もうと約束して、安麻呂は劉と別れた。
銀鈴は安麻呂の最初の女だ。
黒髪の容姿には合わない名は、歌を得意としていたことによる。安麻呂との馴れ初めもその歌だった。
歌っていたのは安麻呂と同じ年頃の少女だった。
艷やかな黒髪に、赤みがかって見える瞳。
歌は確かに美しかった。
透き通って良く伸びる声。
けれども阿礼の歌を知る安麻呂には、その歌は何かが違った。
歌っているのはあだめいた恋の歌。
それも確かに違う。
口伝の物語を天へと送る双子と同じということはありえない。
でも、そういうわかりきった事ではなくて、もっと根本的ななところが違うように感じる。
良い機会だからと叔父に連れて行かれた宴は、海の向こうの大陸から渡ってきたという、商人のものだった。もてなしの余興や酌の女も大陸のものが揃えられており、実に華やかだった。中でも胡姫の歌や舞は美しく、金色の髪に青い瞳の舞姫など、同じ人間とも思われずただただあっけに取られるばかりだ。その胡姫の中で一番若かったのが銀鈴だった。
黒髪にいくぶん赤みがかった程度の瞳という色彩は胡姫の中では地味な方だが、顔立ちが明らかに他の大陸人とは違う。彫りの深いくっきりした顔立ちは胡姫に特徴的なものだ。
まだぎこちなさの残る踊りに引き換え、歌は確かに上手い。若い銀鈴はその席で唯一同じ年頃だった安麻呂の側にはべった。
「大したものだその若さで。見事な歌じゃないか。」
安麻呂の隣に座っていた叔父が、銀鈴に賞賛の言葉を送る。
「安麻呂も驚いたろう。」
気を利かせてか、叔父が安麻呂に話しかける。
「…悲鳴みたいだった。」
ふっと言葉が口をついた。
「は?」
ずっと淑やかに受けていた銀鈴の表情が変わった。
「金切り声とでも言いたいんですか。」
ずいっと鋭い目つきで問い詰めてくる。
「いや、とてもきれいだった。」
慌てて安麻呂が答えた。
「きれいだったけど、泣いてるみたいだった。」
銀鈴の表情が消えた。
ほとんど無言で酌をしていたのに、銀鈴はその夜安麻呂の袖を引いた。
安麻呂は十三歳。
初めての同衾に戸惑っている安麻呂に引き換えて、銀鈴は慣れていた。
慣れている風なのにその行為の間中、やっぱり泣いているような表情をしているのが、安麻呂の心に残った。
銀鈴は奔放な娘だった。
安麻呂は筑紫にいる間中、銀鈴に振り回された。
不意にいなくなったと思ったら他の男のところにしけこんでいる程度は当たり前。その他の男のところになぜだか安麻呂が迎えに行く羽目になった事も数しれない。
踊りもめきめきと腕を上げ、いつの間にか踊子としての名を上げて、あまり歌わなくなった。
大和に戻る事が決まった時、銀鈴との仲を名残惜しく思わないではなかった。
だが、大和だ。
阿礼が、比売田の双子がいる。
戻ると決まればどうしようもなく心惹かれた。
しかも、正直なところを言えば銀鈴に振り回される事に疲れてもいた。
安麻呂が大和に帰る事を告げた夜。
銀鈴は唇を噛んで不機嫌に黙り込んだ。
安麻呂はその表情に、美しい悲鳴のような彼女の歌を思い出した。
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