第二部4史
「阿礼さん、比売田の出身なんですね。僕の先祖は比売田のご先祖の朋輩だったんですよ。」
史の自己紹介は型破りながら、阿礼には届きやすかった。実際、その自己紹介がなかったら、きっと通りいっぺんに流してしまっていたろうと思う。実際、史の先祖だというアメノコヤネノミコトは、猿女の始祖であるというアメノウズメノミコトと共に、天孫に従って天降って来たらしい。
人懐こく、人をそらさない史は、あっという間に大舎人寮に馴染んだ。
それどころか阿礼を通して安麻呂にまで馴染んでしまい、普通に清書を手伝ったり、物語の書簡を借り出したりしている。
単に文字に堪能なだけでなく、史の教養はおそらく相当なものだ。筑紫帰りの安麻呂と、大陸の突っ込んだ話をしている様子からも、その事は見て取れた。
舎人は全く字が読めないようでは確かに勤まり難いが、安麻呂のようになんでも自在に読み書きできねばならないと困るとまでは行かない。自分の名と仕事に必要な字さえわかれば十分だ。むしろ史ほどの教養がある方が珍しかった。
舎人よりももっと政寄りの仕事にこそふさわしいのではないか。史を見ているとそんな風に思わないでもない。
今日も二人で見回りの最中に、塀を越えようという不審者を見かけて、反応したのは阿礼の方が遥かに早かった。
手にした棒を投げ、塀の上の出ていた頭部の顎に当てる。塀の向こうに落ちていった賊を捉えるのに、史の肩を借りて塀を乗り越え、伸びているのを足下に踏まえた。史が門をまわって駆けつけてくる。
史が縄で後ろ手に手首を縛った。
「お見事。」
息を切らせた史に笑っては見せたが、こういう頭を通さない反射のような事が、史はあまり得意ではない。
塀を越えるのに肩を借りたときも、足ごたえが心もとなく、踏み切りにくかった。要は状況を把握して、阿礼の足場になるという自分の位置の見定めがついていなかったのだ。
史は落ちていた棒を拾って、阿礼に差し出した。
二人で賊を担ぎ連行する。
王宮はしっかり守られているようで、物乞いの類が入りこんで来ることも珍しくない。だからこういう対処はそれなりに必要になる。不審者を見つければ頭より先に体を動かすようになってくるのだ。
史はまだ舎人になって日が浅い。
だから舎人としての経験をつめば変わってくるのだろうが、安麻呂と書付の清書をしている時の史を知っていれば、どちらに向いているかは自明のことに思えた。話している様子を見れば史の知識が大陸の史書や法に及ぶのがわかる。そういう知識にはおそらくふさわしい活かしどころがあるはずだ。
朗々と歌い上げる美しい声。
若いが一番の歌い手との評判の高い猿女、真礼。
猿女はかつて天孫と共に地に降ったという女神と、天孫を導いたという男神を祖先とする一族だ。その職能から彼らの封じられた土地は比売田と呼ばれ、最近ではその名で呼ばれる事が多い。
大きくはないが古い伝承を受け継ぐ一族は、軽々しくは扱えない。宮中の祭りに猿女の歌は必須だった。
大海人はそれも変えたいと思っている。
神に仕える古い一族は別に構わない。伝承も大切なものだ。
ただ祭りも伝承も、主体は
神と対峙するのはその子孫たる天皇。
そうでなければならない。
猿女に神が依りつくようではならないのだ。
女でなければならないなら、依代は皇后や皇女であるべきだった。
しかし。
この美しい猿女。
誰もが彼女の歌に、舞に、神の存在を感じてしまう。
いっそ、真礼を閨房に召すことも考えないではなかったが、それでは天皇が禁忌を冒したというだけの事になりかねない。
天皇を中心とした強い国を作る。
他国の侵略を受けないためにもそれは必須の案件だ。そしてそのためには天皇以外の豪族の力を削ぐ必要がある。
土地も、民も、神も、伝承も、
古い諸族の持つ力を、天皇に帰属させなければならない。
真礼のような才能ある猿女は、その障害そのものだった。
「素晴らしい猿女ですわね。美しすぎる程に。」
傍らの讚良が呟く。
讚良もまた、同じことを考えているのだろう。
律令の詔など発しても、それだけで事態が進むはずもなく、豪族達との押し合いは水面下で激しくなるばかりだ。
意外にも本当に難しいのは利害の対立でなく、一族の名誉や伝統が絡む部分だった。
猿女などその代表的なものだ。
猿女は自分たちの伝承を、自分たちの中で口伝する。
一族の男子でさえ、歌うことは許されないらしい。正しく歌う事のできる女子だけが、伝承を口伝されるのだ。
伝承を、なんとかこの手におさめたい。
正しく歌うまでではなくていい。伝承の内容だけでも手中にできればそれでいい。
だが、御門の名で命じたところで、差し出させるのは簡単ではないだろう。あの美しい猿女がそれを許すまい。
歌い終え、舞収めた真礼が、静かに膝をついて大海人を拝する。
形は御門に仕えても、一族の誇りを差し出すような事はしない。それが天皇を推戴する豪族達というものだ。
大海人が静かに頷く。
真礼は静かに下がっていった。
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