第二部2サキの遺したもの

 目が覚めると下腹に違和感を感じた。

 月水だ。

 予想していた事ではあったので、真礼は下仕えを他の猿女への報告に向かわせた。

 月水の終わるまでは神事に関わることはできず、静かに自室で過ごす。

 寝間着から常着に着替える。浄衣でない常着を身につけるのは月水の時しかない。髪も簡単にまとめ、真礼は化粧もしない。

 几に頬杖をついて、御簾越しに外を見る。壺庭の楓が若々しい青葉をゆらし、初夏の気配を伝えている。

 阿礼の想い人が死んだという知らせは、真礼をひどく驚かせ、同時に少しほっとさせた。

 ほっとしてしまって、慌ててその気持ちを恥じた。

 阿礼の嘆きはいかばかりか。

 そもそも山狗に攫われたという娘の哀れさは言葉にも尽くせない。しかも大刀自と語り手の娘を失い、一族の伝承も絶えたはずだ。

 古い物語が絶えることは純粋に惜しまれた。

 けれど、やっぱりほっともする。

 真礼はその気持ちを自分の中に認めないわけにはいかない。

 真礼はサキとか言ったらしい、その娘を知らない。

 名前と、語り手であるという事と、阿礼に想われていた事。

 それが真礼の知る全てだ。

 それでもその娘は真礼を乱し、真礼を苦しめた。

 阿礼が真礼の知らない娘に心を傾ける事が、こんなにも辛い事であるということは、真礼にとってもそうなって初めてわかったことだ。

 ずっと二人なのだと思っていた。

 阿礼が声を失い、真礼が猿女となっても、ずっと二人である事に変わりはないと信じていた。

 どうしてそんな風に思い込んだのだろう。

 母の胎内から連れ添った自分たちは最初の二人で、それは変わらないけれど、お互いの伴侶というわけではない。

 宮中の奥深く、神に斎く猿女である真礼と違い、阿礼がいずれ誰かに妻問い子を得ることは、当然の営みだ。

 自分はそのことをわかっていなかった。

 妻問というのは単なる子を得るというだけの目的ですることではない。心を分け、お互いに想い合う行為であるべきだ。

 ならばどうして阿礼が変わらないはずがあろう。

 サキを得れば阿礼は変わる。

 阿礼がサキを得るように、サキもまた阿礼を得るのだ。

 そのことに気づいて、真礼はうろたえた。

 今、サキが死んだことでその日は幾分遠ざかった。それでもいつか阿礼も誰かを妻問うだろう。

 その誰かが、阿礼の心を奪い過ぎなければいい。阿礼が真礼を忘れるほどに、阿礼の心を占めなければいいと思う。

 それがどれほど身勝手な願いだとしても、真礼はそう願わずにはいられなかった。


 小さな折敷に布を敷き、サキの人形を座らせた。人形は阿礼の部屋にそうして飾られるようになった。

 人形の他にも小さな荷を、阿礼は持ち帰っていた。

 人形のためにサキがこしらえた、何枚もの着替え。阿礼が贈ったいくつかの簪や飾り紐。

 そんなものはサキの部屋から出てきたけれど、あの貝殻の簪はどこからも出ては来なかった。

 サキが、持っていったのだろうか。

 阿礼が作った簪はサキと一緒にいったのだと思うと、何かしら慰められた気持ちになった。

 都に戻った阿礼は、ただ淡々といつもの通りに勤めている。

 サキを恋しく思う気持ちは薄れることはなく、失った悲しみを埋める術はなかったけれど、それでも日々の生活を続けていれば、少しづつ癒えていくものもある。

 生きている阿礼は、結局のところ生きてゆくより他にない。

 「おい、阿礼。」

 勤め明けには安麻呂の襲来もある。

 「ここなんだが、ちょっと教えてくれ。」

 書き取った阿礼の歌った物語の清書を、暇を見て続けているようで、書き取れていなかったり、読めなかったりする部分を確かめに来るのだ。

 ついでに食べる物や酒も持ってきてくれる。都に戻ってすぐの頃の阿礼は、機械的に勤めをこなすだけだったので、安麻呂がいなければまともに食事を取らなかったかもしれない。

 今年は落ち着いた年になればいいと思う。

 大地も揺れず、寒くも渇きもしない夏と、実りの多い秋がいい。

 人も獣も飢えない冬が来てほしい。

 ふと、せり上がって来るものを飲み下す。

 まだ、記憶は新しく、固まらない傷のように血を滲ませている。

 サキへの愛しさはそのまま哀しみへと変わった。痛みは阿礼がサキを愛しんだという証だ。

 その辛さは阿礼が一人で耐えるより他にどうしようもないが、それもまたサキへとつながる糸のような気もして、必ずしも苦痛ではない。

 結局、今はただ、哀しみを噛みしめるより、出来る事はないのだろう。

 安麻呂が持ち込んだ酒をなめる。

 物語の話をしながら盃を重ねるうちに、疲れきった阿礼に酔いはまわり、静かに眠りに落ちていった。

 

 眠ってしまった阿礼にたたんであった寝具代わりの単を掛ける。手枕で寝てしまった阿礼は、ひどく疲れた顔をしていた。

 安麻呂は部屋の隅の、折敷に布を敷いた上に座らされた、小さな人形を一瞥した。

 あれはサキが遺した人形だ。

 都に戻った頃、安麻呂は阿礼をサキに奪われるのではないかと恐れた。

 死者が生者を一緒に連れて言ってしまうことは時々起こる 。死者が寂しがって道連れにするのだとも、生者の側が死者を手放さないせいだとも言われた。

 安麻呂は決して阿礼から目を離さなかった。毎日のように口実をつけて訪問し、食事をさせ、寝かしつけた。

 最初、思いつめた顔で俯いてばかりいた阿礼は、やっと普通に顔を上げつつある。そうして常に懐に忍ばせ、あるいは握りしめていた人形を部屋に飾るようになった。

 ちょこんと座った人形は阿礼のサキへの未練そのものだ。身体から離せるようになったのはたぶん良いことなのだろう。

 そして口実とは言っても、物語を書きとめる作業は面白かった。

 ただ聞かされるしかなかった物語は、文字にすることでじっくりと読み込めるものになる。語り手でない安麻呂にとっては、物語が近くなったように感じられた。

 不明な部分はたずねれば、阿礼が教えてくれる。ただ、あの時のように阿礼が歌うことはない。

 あの歌はやはりサキのためのものだったのだろう。

 天へ上る力を持たず、地に堕ちて行った歌。それでもそこには散り敷く花や紅葉に似た、美しさがあった。

 考えようによっては、今、安麻呂の進めている作業は、あの落ちて散り敷く美しさを写し取ろうという試みのようにも思う。

 阿礼は安麻呂の書き取りを「物語の墓」と呼んで憚らないが、それでも協力してくれるのは、野ざらしに朽ちさせてはしまいたくない気持ちがあるということなのだろうか。

 食器をいつも通り隅に寄せ、広げた竹簡をまとめて抱えると、灯した小さな明かりを消して、安麻呂は部屋を出ていった。

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