第二部1筑紫の始末

 歌が聞こえる。

 美しい少女たちが歌っている。

 少女たちはそっくりで、どちらも驚くほど歌が上手いのだが、髪飾りをつけない方はひときわ美しく歌う。

 そこだけ別の世界のようで、安麻呂にはとうてい踏み込みことが出来ない。

 それでいて、少女たちから目をそらし、その歌に耳を塞ぐことは、もっと出来ないのだ。

 魅入られて。

 ただ歌を聞いていたくて。

 聞いているのが幸せで。

 ずっとこうしていたいと思っていた。


 目覚めた安麻呂は自分が泣いているのに気がついた。

 よく見る夢だ。

 そして

 涙が流れるのもよくあること。

 安麻呂の中の最上の記憶。

 もっとも美しいものの記憶。

 それは幾度も幾度も、安麻呂の中で再生され続ける。

 自分はどれだけ囚われているのか。

 「飲む?」

 同衾していたアカネが、土器かわらけに水を汲んでよこす。

 ありがたく受け取ると、安麻呂は喉を鳴らして水を飲んだ。

 「もう夜明けよ。」

 なるほど建てつけの良くない戸の隙間から、薄明かりが射している。

 安麻呂は起き上がると、脱ぎ捨てていた衣類を手早く身に着けた。少々そそけた髪を、湿らせた櫛でかきあげて冠の中に押し込む。

 「また。」

 「ええ、また。」

 短い抱擁を交わしてアカネの家を出た。

 安麻呂が夢を見て泣いていても、アカネは一々詮索しない。それだけが理由ではなくても、長続きしている理由がその辺りにもあるのは確かだ。

 今日は地震の難を逃れて筑紫から移された譜が難波から運ばれて来ることになっている。筑紫の知人の誰かれの消息もポツポツと聞こえ、地震の詳細は少しづつわかりはじめていた。

 筑紫の太宰府は壊滅と言いたいような被害を受けたらしい。持ち出すことのできたものは、取るものもとりあえず船で難波宮に運び込まれた。

 難波宮での文書の仕分けには、実は安麻呂も参加するはずだったのだが、サキの里の騒動で都を離れてしまったので、代わりに一族からは高麻呂が出向いてくれている。

 運び込まれた品は相当に玉石混交であるようで、難波宮は大変な有様らしい。

 あの時、真礼からの伝言に後先考えずに飛び出した安麻呂だったが、意外にあとの苦労はなかった。どうやら真礼が四方に根回しをしてくれたらしい。

 安麻呂の父にも真礼からことわりと謝罪の使者が来たそうで、おかげで速やかに代理の高麻呂を難波に送り込むことができた。

 阿礼の方にも手当てはしてあったのか、定められた休暇を相当超過していたはずなのに、すんなりと勤務に戻っている。

 ほとんど俗世とは切れたような生活をしているはずなのに、真礼の目配りは驚くほど的確だった。

 (そういうところは双子でも阿礼の方が抜けてるよな。)

 阿礼はいい男だが、根回しとか目配りとかに長けたたちではない。

 むしろ周りがつい、阿礼のために根回しや目配りをしてしまうようなところがある。安麻呂自身もそうであるように。

 「今日も忙しくなるぞ。」

 口に出して、ぐっと背筋をのばす。

 筑紫の地震による混乱がおさまってきたぶん、太宰府壊滅の処理という実務がのしかかり始めている。

 安麻呂は気合をいれて、宮の門をくぐった。


 太宰府の再興をどうするか。

 ただでさえ国力を削がれている折にこれは中々の難題だった。

 太宰府はこの国の玄関口だ。他国への示威としても捨て置くわけにはいかない。

 壊れた宮の旧材などどの程度使用出来るか調べさせてはいるが、一部火が出たりもしているようだから、多くを期待しすぎるのは危険だろう。

 さて。

 「何を考えておいでですの?」

 微かな衣擦れに被る声に顔を上げると、大后おおきさきの鸕野讚良が立っていた。

 大后と言えばつまりは天皇すめらみことである自分の正后むかいめなのだが、大海人には讃良は妻というよりは天皇の片割れというように感じられる。

 自分よりも十四も年下だということが信じられないような落ち着き。

 よく物事を見据える目。

 理路整然とした話しぶり。

 明晰な頭脳。

 讚良が男であったなら、自分は天皇にはならなかったのではないか。

 血筋といい、素質といい、大友皇子などとは比べ物にならない。讚良なら託された皇位を守り抜いたろうし、それ以上に大海人も挙兵しようとは思わなかったろう。

 「うん、太宰府のことはなんとかせねばと思うのだがな。」

 それだけをいうと讚良はすぐに得心した表情を見せた。

 「確かに難しうございますね。あの場所は大陸への要。早急に形をつけねばなりませぬが。」

 ここ最近の天災続きで国庫には余裕がない。比較的余裕のあった太宰府が今回は被害の中心なのだ。

 「少し小さくはなりましょうとも、とにかく最低限の宮を建て、おいおい格好つけてゆくくらいしかしようがないのではありませぬか。」

 結局、讚良も大海人が考えていたと同じ、無難な結論にたどりついたようだった。

 「ふむ、結局そういうことにするより他なさそうだな。」

 早急に再建のための官を送り、目処をつけさせることに決まった。

 飛鳥も二年ごとに訪れた地震のせいでまだ幾分荒れている。即位と同時に近江から還した都はそうでなくてもにわかづくりだった。

 本当は、御代替わりのたびに動くようなものではない、整った大陸風の都を作りたいという気持ちが大海人にはある。

 だが、即位して七年、道は遠のくばかりだ。

 「まあ焦らぬ事だ。一つ一つ進むより他にあるまい。」

 ため息まじりに呟くと、讚良が静かに頭を下げて賛意を示した。

 

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