第一部18殯
サキが遺した人形は薄紅の上衣に萌黄の裙を着ていた。サキが縫い上げた衣装だ。春らしい装いは春を待つ心で選んだのだろう。
サキの里は滅びた。
サキも、サキが受け継いでいた物語も失われた。
いや、違う。
物語はまだ残っている。
聴き覚えた阿礼の中に。
掠れた声でほとんど無意識に阿礼が歌う。
サキが歌っていた物語。気に入っていた物語。
ただ、天へ登る声を失った阿礼が歌っても、物語は舞い上がらない。
ぱたりぱたりと地へ落ちてゆくばかりだ。
それでも阿礼は歌う。
呻くように、吐き出すように、慟哭するように。
いつの間にか、傍らに安麻呂がいた。
もしかしたらずっといたのかもしれない。
繋げた竹簡を広げ、猛然と何かを書き取っている。
阿礼が歌う。
安麻呂が書き取る。
地へと落ちる物語の亡骸を拾って埋葬でもするように、安麻呂は阿礼の歌う物語を書き留めているのだった。
阿礼が歌い止んだ時、安麻呂はとおに竹簡を使い切り、通りがかりの里人に集めてこさせた焚付の木切れや何かをうず高く積み上げていた。そのどれにも走り書きの筆跡が見える。
安麻呂はそれらの走り書きの山を、懐から出した布で包んだ。全てはとても包みきれずに紐でもからげ、それも無理な分を袖に包むように抱える。
「阿礼、手伝ってくれ。」
阿礼は言われるままに、安麻呂が抱えきれなかった分を抱えた。言われるままに比売田の里まで運ぶ。お婆の館の阿礼の部屋まで運びこんだ。
「どうするんだ。」
運び終えて、初めて阿礼が口をきいた。
「清書する。」
安麻呂が答えた。
「燃やさないのか。」
阿礼はなんとなく、燃やすものだと思っていた。
これらはもう舞い上がることのない物語だ。唯一覚えている阿礼には歌うことも伝えることもできないのだから。
「燃やしてどうする。」
安麻呂の答えは明快だった。
「清書して、誰でも読めるように調える。そうすれば物語があった事は残る。」
消えてしまった里の、消えてゆく物語を文字を使って書き留めるのだという。
墓だ、と阿礼は思った。
ぱたりぱたりと落ちた言葉の亡骸を、やはり安麻呂は埋葬しようとしているのだ。死者を埋め、印を立て、死者を弔い偲ぼうとするのと同じように、物語を弔い偲ぼうとしているのだと阿礼は思った。
「それはともかく、お前は寝ろ。」
安麻呂に言われるままに振り返ると、そこに自分の寝床がある。
阿礼はふらりと倒れ込み、泥のように眠った。手にはサキの人形を握りしめたままだった。
虚ろに物語を歌い始めた阿礼を見て、これではいけないと安麻呂は思った。
すでに伸びてゆく力を失った阿礼の声は、死者を確かめるように物語を吐き出している。
これは殯だ。阿礼は自身を霊屋に殯を行っている。人のための殯であれば、いつかは陵が作られ殯は明けるだろう。しかしサキの残した物語は永遠に収まるところなく阿礼の内にあり続ける。
阿礼は永遠に殯に囚われてしまうのではないか。
それは恐ろしい予感だった。
とっさに持っていた竹簡に、阿礼の言葉を書き留めた。竹簡が足りるはずのないのはわかっていたから、通りがかった里人に焚付の薄板を、あるだけ運んでくれと頼んだ。
阿礼が霊屋だというのなら、亡骸の納めどころを作ればいい。
亡骸が墓に収まれば、殯は終わる。
そこまではっきりと考えていたわけではないけれど、安麻呂が行なったのはそういうことだ。
阿礼の言葉をとにかく書き留めてゆくうちに、安麻呂はその作業が面白くなっている自分に気づいた。
阿礼の言葉は
安麻呂はひたすらに書き留めた。
大陸の史書とも政の覚書とも違う、物語。それは安麻呂が今まで読んだことないものだ。
連綿と口伝えに伝えられて来た物語は、紙の上ではすでに弾む節まわしも失っているが、整然と並ぶ姿は別の美しさではないかとも思える。
あとはただもう夢中で書き取って、気がついた時には阿礼の歌は止まり、自分も筆を止めていた。
「燃やさないのか。」
「燃やしてどうする。」
姿形は変わっても、例え言の葉としての瑞々しい生命は失っているとしても、かつてあった言の葉の亡骸にすぎないのだとしても。
「清書して、誰でも読めるように調える。そうすれば物語があった事は残る。」
書き留めた物語にも美しさはある。そう気づけば無下には出来なかった。ましてこの物語はこの断片を残して失われようとしているのだ。
阿礼は少し考えて、納得したようだった。
阿礼を寝床に追い込んだ傍らで、安麻呂は自分が書き取った走り書きに目を走らせる。
ところどころわからないところがある。阿礼に教えてもらわなければ、清書はできないだろう。
ふと、阿礼を見ると、人形を握りしめたまま眠っていた。
都風の人形は阿礼がサキに贈ったものだろうか。
胸に痛みが走る。
安麻呂にはそれが羨望と嫉妬の痛みであるのがわかった。
山狗に攫われ、おそらくは食い殺されたであろう娘にむける羨望。おかしいだろうか。
しかしサキが阿礼に忘れられることはもうないのだ。
サキの存在は阿礼のなかに刻み込まれた。
阿礼の中の特別な場所におさまってしまった。それがどれ程のものであるかと言う事を、阿礼の歌が物語っている。
声を失ってから決して歌わなかった阿礼が、サキのために歌ったのだ。
その声には確かにもう天に駆け上る力はなかった。
それでも自らを霊屋に殯を行うその声は、人の心を揺さぶる力を持っていた。
安麻呂は阿礼にとっては親しい友だ。
しかし、それでも阿礼から歌を引き出すことは出来ないだろう。それはきっとサキにしかなし得ないことだ。
安麻呂はサキが羨ましい。
そしてサキが恨めしい。
阿礼の歌がサキのための殯だとわかっていても、それでもその歌を耳にして心が震えた。
きっと安麻呂はどうしようもなく阿礼に魅せられているのだ。
もしも山狗に食われることで、サキと同じ場所を得られるのなら、自分はそれを厭わないのではないか。
いかん、いかん。
安麻呂は頭を振った。
考えてもしようのないことを、ぐるぐると考えすぎた。
走り書きに目を戻す。
読みにくい自分の文字を追うことで、気づいてしまった自分の心の秘密から、あえて目をそらした。
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