第一部15瑞兆のあと
「瑞兆でございますか。」
年上の同僚から囁かれた言葉を、安麻呂は思わず問い返した。
「なんでも珍かな稲がとれたそうだ。これは瑞稲であると御門に奉ることにしたとか。」
話してくれたのは父の従兄弟、高麻呂。楽器の腕はそこそこだが、譜の解読に執念を燃やしているところが安麻呂と似ているので、親しい。宮廷の様々な噂話を拾い集めるのに長けているのは、安麻呂よりも一回り上の年の功と言うべきか。
はて、と安麻呂は思う。
このところ国は災難続きだ。神に嘉されている実感などありはしない。
ただ、だからこその瑞兆、というのは分からないでもない。
それは「もうこの辺りで終わりにしてくれ。」という切実な叫びなのだ。誰が発したものであるのかはともかくとして。
高麻呂の話は本当だったようで、間もなく罪人のうち罪の軽い者を許すという恩赦が出た。
しばらくすると今度は、難波に甘露が降ったと話題になった。なんでも綿のようなものが降り落ちてきて、松の梢や葦原にかかって揺れていたらしい。これは場所が近いだけに実際に目にした者も多く、しばらくは宮廷の話題をさらった。
年の瀬まで静かに過ぎ、このままさすがにこの年は暮れるかと思われた頃、筑紫より早馬が着いた。
筑紫地震発生の凶報だった。
「慌てるな安麻呂。お前が行ってなんになる。」
「しかし。」
筑紫は安麻呂にとっては馴染み深い土地だ。今もそこに暮らす知己も多い。
その土地を大地震が襲ったという知らせは、安麻呂を動揺させた。
朝廷も新年を迎える気分などは吹き飛び、状況の把握のために早馬が行き交っている。散発的に飛び込んでくる知らせはどれも、被害は相当なものであるという事ばかりだ。
ふらふらと勤務明けの阿礼の部屋に現れた安麻呂は、頭を抱えてうずくまってしまった。様子を見に筑紫へ行きたいなどと口走るが、まさかそんな事はさせられない。大きな地震には揺り返しがつきもの。筑紫はいまも揺さぶられている最中かもしれないのだ。
そんなところへ安麻呂がのこのこ出かけても危険なだけで、なんの足しにもならないのは明らかだった。
「今は人の消息など伝わりようもあるまい。しばらく様子を見たらどうだ。」
繰り返し諭す内に安麻呂も幾分落ち着いて来たらしい。座り直した手に、とりあえず坏を持たせる。あいにく少々すえた酒しかないが、今の安麻呂にはないよりましだろう。口を湿したのを見計らって、鹿の干し肉を割いたのを出した。前に里に戻ったときに、阿礼が獲ってきた鹿で作ったのだと、サキが持たせてくれたものだ。
硬い干し肉を口に含んでモゴモゴやっているうちに、かなり落ちついたらしい安麻呂は、酒を煽って鹿を流し込むとため息をついた。
「いかんな俺も。そうだよな、今行っても俺には何もできん。せめて出来ることを見つけてからでなくてはな。」
阿礼は筑紫という土地を安麻呂の話でしか知らない。
ただ、安麻呂の語る筑紫は、明るく開放感に溢れていて、一度どんなところか見てみたいと思わされた。
安麻呂は大人になっていく数年を筑紫で過ごしている。その場所を大切に思い、その場所の凶報に動揺するのは当たり前だ。
「さて。」
阿礼は自分も干し肉を一きれつまんで立ち上がった。そろそろ次の勤務の時間だ。朝廷が動揺しているこんなときは、どうしても舎人の勤務時間は長くなる。まして今日は大晦日だ。規定の儀式は滞りなく行わなければならない。
「もう仕事か。」
安麻呂は二切れ目の鹿を口に入れかけたたところだ。
「まあな。気が済んだら戸口はしめといてくれ。」
短い休憩は結果的に安麻呂にくれてやったようなものだが構わない。
「悪かったな。詫びにすえてない酒を差し入れておくよ。」
酒の品定めができるくらいならもう大丈夫だろう。
「ぬかせ。」
ニヤリと笑って阿礼は部屋を出た。
落ち着けば自分が阿礼の短い休みを潰してしまったのだとわかる。出しなにつまんだ干し肉が、阿礼が唯一口にしたものではなかったろうか。
「いかんな俺は。」
それにしても阿礼はいい男だ。少々小柄ではあるが姿はいいし、弓も剣も腕は立つし、狩でも必ず成果を上げる。舎人としての勤務も怠りなく、同僚の評判もいい。
その気になれば女など選り取り見取りだろうと思うのに、何が嬉しいのか女とも呼べないような小娘に進んで囚われている。
一度見かけたことのあるサキの姿を思い浮かべる。
歌は悪くなかった。
真礼やかつての阿礼の歌を天上の月だとすれば、野に咲く花のようなささやかさではあるが、花にも花の美しさのあることを認めない安麻呂ではない。
でも、歌い終わればこれという特徴もない小娘だ。愛らしくないことはないがその愛らしさ可憐さは、安麻呂あたりからすると女と子供のどちらに分類するべきか悩ましいようなものだった。
ただまあ、阿礼がどうしてもあの小娘がいいのなら、協力するにやぶさかではない。
そうは言ってもサキは既にどうみても阿礼にぞっこんだったから、問題は阿礼の踏ん切りだけだろう。
(そういえば、簪がどうとか言っていたな。)
いつだったかそんな事を聞いた覚えがある。采女の挿しているような銀と玉飾りの簪を贈りたいのだと。
乳臭い小娘だが、妻問うに不足のある年齢ではなさそうだった。ならば阿礼の踏ん切りのつかない理由がその辺りにあるというのはありそうな事だ。
(ひと肌脱いでやるか。)
女の飾りの事なら知っているのは女だ。
通う女の顔を幾つか思い浮かべる。
筑紫の地震には手も足も出ない安麻呂だが、阿礼の妻問いのためになら出来ることがありそうだ。
安麻呂はもう一切れ干し肉を口に放り込むと立ち上がり、きっちりと戸を閉めて自分も仕事をするために歩き出した。
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