第一部14ぬえくさの
夏の地震は秋の実りに確実に響く。
朝廷でも予定していた工事の一部を延期にするなどの影響が出た。
人が死に、収穫も落ちている今、国力、民力を削ぐ工事などは慎まざるを得ない。
まして今年の夏は雨も少なく、ただでさえ減った実りを更に削った。
厳しい冬になった。
比売田の里もサキの里も、助け合って何とか耐えたが、年寄りや幼子はどうしようもない。
サキの里はいっそう人少なになった。
続く地震に不作となれば帝徳の問われる事態だ。御門は状況を重く見て、全国での大祓の儀を命じる。
倉梯川の川上に斎宮を建て、四月七日ついに行幸というその朝、皇女の逝去があった。
十市皇女。
御門のかつての寵姫、額田女王が生み参らせた皇女であり、御門が壬申の乱で倒した大友皇子の后であった皇女だ。
死の穢れにあっては神祀りのための行幸は控えざるを得ない。
そして四月十三日。
新築の斎宮に落雷があり、大々的に天神地祇を祀ろうとした大祓は、ついに挙行される事なく終わった。
朗々と歌い上げる、歌い上げる、歌い上げる。
神々のなしたること。
天より下り来る道筋。
そして
天孫の血をひく代々の御門。
天にいます神々に、その子孫の祈りを届けるために、地上を目に留めてほしいが為に。
歌う、歌う、歌う。
やがて全ての祈りは歌へ溶け、無心にただ歌い続ける。
真礼の歌はどこまでも、高く高く上っていった。
続く天変は帝徳を問われるだけではない。捧げる祈りもまた問われる。
猿女も、陰陽師も、僧も、
その意味では変わらない。
御門の豪腕ゆえに何とか収まっているとは言っても、都を襲った二度の地震に、定まらない天候。そこへこの度の皇女の急逝、斎宮落雷の凶事だ。
誰の心にも恐れが忍びこんでくる。
御門がその即位を認めない先の御門の皇子。実質は短いながらも帝位を踏んでいた大王。
その大后である今上の皇女が、よりにもよって大祓の朝に変死した事実は、人々に「先帝」の祟りを思わせずにはいられない。
まして新築の斎宮の落雷消失に至っては、神々が御門の祀りを拒絶なさったのだと噂されることは避けようがなかった。
ただ、これは必ずしも猿女にとって悪いことではないと真礼には思える。
ここ数代の御門は誰も、大陸の祀りの形を取り入れようとしてきた。その祀りが神々に拒絶されたのは、昔ながらの祀りをこそ、神々が欲しておられるのではないかと思えるからだ。
だから真礼は歌う。
神々を喜ばせ、その偉業を称える物語を。
人が神を受け継ぐものであるその証を。
物語を遥かに受け継ぐ者の誇りをもって。
ガサリという獣の気配に一同は申し合わせたように立ち止まって耳を澄ませた。独特の鼻を鳴らす音、息遣い。
目を見交わして二手に分かれた。勢子と射手。弓射に優れた阿礼は射手に加わる。
やがて勢子たちの打ち鳴らす音が聞こえ、「行ったぞ。」の声がかかった。
鼻息も荒く獲物が現れる。大きな猪だ。
阿礼はつがえていた矢を放った。矢は過たず猪の眉間に吸い込まれる。
一矢では勢いの止まりきらない猪に、他の射手からも次々と矢が放たれ、猪がどうっと倒れた。
即座にとどめの喉が裂かれ、足に縄をかけて樹上に釣り上げる。宙に浮いた猪の喉から血が滴り落ちた。
これで猪は二頭め、鹿は三頭狩った。一日の猟果としては中々のものだ。
三人が手際よく猪の内蔵を抜く。食べられない内蔵は手早くわけられて土に埋められた。
新しい獲物を引きずって川辺に向かう。川には内蔵が抜かれた獲物が沈めてあった。
今日はもうこれだけ穫れば十分だ。
最後の猪を川に沈め、沈めてあった鹿を引き上げる。後ろ足を括って木に吊り下げると解体を始めた。
川の中で血をさらして冷やしてあった鹿は、簡単に皮を剥いて解体することができる。またたく間に処理を終わると猪にかかった。
脂の分厚くまいた猪は、皮を剥くのに鹿よりも遥かに手間がかかる。特に最後に狩った一頭は脂が冷え切っておらず、手を取られた。
必要のない骨などをまとめて山の奥の方に埋めに行き、残りで解体に使った河原を清めると、まとめた肉や皮を背負って山を下りる。
実りの乏しかった冬を乗りきるのに、狩りの回数は増えた。阿礼も里に戻っている折には欠かさず参加している。
参加すれば必ずいくばくかの獲物を、サキに届けた。
「鹿の肉に猪の脂、鹿の皮まで。ありがたいこと。」
婆さまの指図でサキが干し肉を作る準備を始める。皮を鞣すのは腕に覚えのある爺さまの仕事で、呼ばれた爺さまがいそいそと皮を運んでいった。
脂は一度溶かしてこし、壺の中に蓄えておく。チリチリになった脂かすを細く刻んだものが粥に入るのが、狩りのあった日のごちそうだ。数少ない里人の全てで分け合う。その粥も今年は特に稗がちだが、不満を唱える者はいない。
もともと米の収量はそれほど多くなく、普段の膳に並ぶのは稗混じりの粥があたりまえなのだ。
「サキの御蔭で良いものにありつけたわ。」
「ほんにサキは良い婿を捕まえた。」
粥をつぐサキが真っ赤になる。
いつの間にか阿礼は、まだ通いもしない内にサキの婿呼ばわりをされるようになっていた。サキもすでに十五、年が明ければ十六だ。そろそろ具体的に妹背の仲になってもおかしくない。
ただ、阿礼はまだ思い描いた簪を手に入れられずにいる。それはなんの約束と絡むわけでもないのだけれど、阿礼自身のこだわりになってサキの枕辺の戸を叩くことをためらわせていた。
日が落ちた夜道を、阿礼が比売田の里に帰って行く。
いっそ泊まって行けばいいのに、とサキは思う。
すでに婿と呼ばれている阿礼がサキの家に泊まるということが、何を意味するかわからないほどサキは子供ではない。
本当に泊まるとなれば、自分が狼狽することはわかっているが、こんな夜道を見送るくらいなら、泊まっていけばいいと思う。
比売田の里は確かにとても近いけれど、少しは山道も歩かなければならない。時に獣の出る夜道はやはり危険だ。そんな道を阿礼に歩かせるのが嫌だった。
本当は、未だに阿礼が直接妻問うてくれないことに不満もある。周囲は阿礼をサキの婿と見ており、それをサキも阿礼も否定しない。
贈られた数々の美しい「土産」。
ことあるごとの気遣い。
阿礼にそのつもりがないわけでない事はサキにももうわかっている。
ただ、その決定的な言葉を、阿礼の口から聞きたいのだ。
懐から包を出す。
美しい若草色の布に包まれているのは、あの貝殻の簪だ。
人形はもとのように部屋に飾るようにしたけれど、この簪は地震以来、いつでも懐中に持ち歩いている。
時に酷い揺り返しがあっても、着物の上から簪の包みに触れるだけで、落ち着きを取りもどすことができた。
サキは阿礼をこの世で一番慕わしく思っている。
それは阿礼に初めて出会い、その美しさに見とれたときにくっきりとサキの中に刻まれて、揺らいだことはない。
だからあの美しい唇が、サキを求める言葉を紡ぐのを見たいのだ。
もしかしたらそれだけで、心の蔵がはちきれてしまうかもしれないけれど、そんな事は構わない。
それともサキがそんな事を阿礼に求めてしまうのはいけないのだろうか。
「ぬえくさの…」
ふと習い覚えた歌が口をついた。
「…めにしにあれば わがこころ うらすのとりぞ いまこそば わどりにあらめ のちは などりにあらむを…」
サキの心はサキのもの。
けれど、
阿礼が求めてくれるなら、阿礼のもので構わない。
なのに、求めてくれなければ差し出すことも出来ないではないか。
阿礼の消えた夜道をもう一度透かし見るように見つめて、サキは家に戻った。
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