第一部13猿女阿礼

 月明かりに照らされた女の寝顔を眺める。

 特に美しくも醜くもない女。

 ただ機会があったから関係を持ったに過ぎないが、安麻呂の通う女たちの中では一番長い仲の女だ。

 どうして自分を受け入れたのだと安麻呂に問われて、出会ったからだと答えたことがある。出会えば誰でもいいのかと問うと、女は笑った。

 「出会わない相手と恋はできないわ。大切なことよ。」

 始めて会ったのは都の市で。

 布をすごい勢いで値切っていた。

 最後に半分しかいらないと言い出して売り手と揉めていたのを、残り半分を買うと言って引き取ったのが安麻呂だ。実際に布は入用だったし、女は値切るのが上手く、渡りに船だった。

 「全部買うのは厳しかったのよ。助かったわ。」

 凡庸な顔立ちなのに、笑うと不思議に華やぐ女にそのまま誘われて、なんとなく通い始めた。

 歳は多分女のほうが三つ四つ上。名前はアカネだそうだが本名なのかはしらない。

 閨に入れば特に奔放ということもなく、これという特徴もないのだが、時々見せる華やいだ笑顔が、切れ切れながらも安麻呂の足をアカネの家に向けていた。

 アカネの方もたまにしか来ず、生活の足しになるほどの援助をもたらす訳でもない安麻呂を、当たり前のように受け入れる。双方ともたいした執着があるわけでもないのをお互い自覚していながら、不思議に続いている

 いや、だからこそ続いているのか。

 思いというのはおかしなもので、どちらかが重すぎても軽すぎても上手くいかない。そういう意味では安麻呂とアカネは見事につろくしている。

 むしろ、俺と阿礼の方が。

 ふと、そんな事を思う。

 安麻呂と阿礼の関係は、安麻呂の執着が強すぎる。

 その執着を阿礼に見咎められることのないように、ずっと隠してきたこれまでだった。

 阿礼が女なら。

 安麻呂の中には今も、猿女となった阿礼がいる。

 清らかな天に上る声で歌い上げ、余人を魅了する舞を舞う。真礼と相舞を舞えば何者も惹きつけずにはおかなかった事だろう。

 阿礼が女でさえあれば。

 実際には男である阿礼に、こんな風にいつまでも執着するのも奇妙なことだが、安麻呂の中から猿女阿礼を消すことは、どうしても出来なかった。


 阿礼が女であったなら


 仄かな月明かりの下で、一人真礼が舞う。

 幾度も幾度も動きを確かめ、胸の奥に問いかける。

 阿礼ならどんなふうに舞うだろう。

 実際には阿礼は舞った事はない。

 真礼が舞を習う頃には七つを超えて、阿礼は舞うことをゆるされなかった。

 それでも真礼は夢想する。

 阿礼の舞うこの上なく美しい舞を。

 阿礼の挙祖は美しい。何でもない仕草に舞が宿っているかと思えるほどに。

 阿礼が女であったなら、理想的な猿女になっただろう。

 だれよりも多くの物語を知り、歌い上げ、この上なく美しく舞う猿女に。

 その姿を自分の中に結び、必死になぞる。

 出仕する前、阿礼を真礼に似ていると、多くの人が言った。

 本当は反対なのだ。

 真礼が阿礼をなぞっているのだ。自分の中の理想の猿女の形代として。

 もしかしたらこんな執着は、あまりに度を越しているのかもしれない。実際には阿礼は男で、猿女であるのは真礼なのだ。

 それでも真礼には、自分の中に結んだ猿女阿礼をなぞり、同化しようとする以外に、この思いを、執着を、昇華させる術を見つけることが出来なかった。

 どうして自分たちは双子なのだろう。

 どうして自分は女で阿礼は男なのだろう。

 いっそ一人だったなら良かったのに。

 そうでないなら

 自分が男で阿礼が女であっても良かった。

そうしたら、自分は最上の猿女阿礼を心を尽くして守っただろう。

 ただひたすらにその声に酔い、物語に憧れながら。

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