第一部12サキの歌

 淡い萌黄の単に青い裙、そして赤い背子。 

 指先にとろりと柔らかい絹の感触。

 それは触れるだけで胸の高鳴るような衣装だった。端布になら触れた事もあるし人形の衣装も縫ったけれど、自分の衣装として身にまとったことはない。

 阿礼から受け取った綿入れを婆さまに渡すと、サキはいつも水浴びに使っている水場に急いだ。

 髪を梳かして結い直し、汗ばんだ身体を濡らした布で拭いて単に袖を通す。衣装を整えて、ちょっと迷ってから髪に貝殻の簪を挿した。

 貝殻の簪は、地震の日以来人形と一緒に布に包んで、いつでもサキの懐に入っている。

 さらさら

 きらきら

 簪の揺れる音は絹の衣装の手触りに劣らず、サキの心をときめかせた。

 このところ、ずっと地震の始末にばかり追われていた心が、しんと鎮まってくる。

 その心持ちで阿礼のもとに戻った。

 サキは歌う。

 声は静かに空へと伸びてゆく。

 年寄りの多いサキの里では地震のあとに死者が出た。まだ何人か危ない者もいる。

 死んでいった者

 死んでゆく者

 生きてゆく者

 過去から続く流れを、記憶を、歌にのせて空へ送る。

 神々のいますところへ、想いを届けたい場所へ。

 サキの歌はどこまでも伸びていった。


 サキの歌が変わった。

 阿礼は居ずまいを正してサキの歌を聞く。

 ただ無心に歌っていた今までのサキではない。

 語りかけるように

 祈るように

 確かめるように

 サキの髪で簪が揺れる。あの、阿礼が贈った貝殻の簪だ。

 「ああ、きれいだねえ。」

 足の歪んだ婆がつぶやく。

 本当だ。と阿礼は思った。

 娘らしいとか言う事ではなく、サキの姿も歌も調和して快く、ただ美しかった。


 安麻呂が、比売田のお婆に持たされた荷を担いでたどり着くと、少女がひとり歌っていた。

 青い上下に赤を聞かせた絹の装束に、前髪を結んだ萌黄の紐。結んだ髪には櫛と簪がさされている。

 簪からは薄紅の花房のような飾りが下がっていた。

 あれは貝殻だ。小指の爪ほどに小さな。

 安麻呂はそれを阿礼の部屋で見たことがあった。

 ではあの少女が、阿礼が心にかけている「サキ」なのだ。

 サキの歌は静かに空へと染みてゆく。

 真礼の、そしてかつての阿礼の歌のような荘厳さ、絢爛さはないが、静かに聞いていたくなる柔らかな声だ。

 それは人をひきつけ引き込むと言うよりは、人に寄り添い包み込むような歌だった。老いて傷ついた人々が静かに耳を傾けている。その中に阿礼もいた。

 柔らかい静かな阿礼の表情は、安麻呂が見たことのないものだ。

 ふと胸が騒いだ。

 「おい。」

 ズカズカと阿礼に近づき声をかける。

 「安麻呂。」

 振り返った阿礼の視線が、すぐに歌うサキの方に泳いだ。

 「お前がさっさと行ってしまうから、俺がお婆に荷をおっつけられたぞ。」

 さすがにサキの歌を聞く人々をはばかってそっと下ろした葛籠の中には、絹物こそ少ないものの、布や衣類、毛皮まで入っていた。

 「おや、阿礼かい。きてくれたんだねえ。」

 村長らしい婆が現れる。村長かと思ったのは先程阿礼がお婆に持たされた、絹の綿入れを腕にかけていたからだ。

 「比売田の大刀自様にお礼を申し上げておくれ。こんな上等の綿入れははじめてだよ。ありがたく使わせていただこう。」

 「その比売田の大刀自からの追加の荷です。阿礼がさっさと行ってしまったので、俺が預かってきました。」

 安麻呂がおろしたばかりの葛籠を示した。

 大刀自というのは一族の要となる老女の事だ。一族の歴史を知り、差配する力を持っている。ここや比売田の里がそうであるように、この辺りの古い氏族では大刀自が一族をまとめている事が多かった。

 「おや、それは世話をかけたねえ。お前さんは?」

 「安麻呂です。多氏の嫡子の。」

 阿礼が安麻呂を紹介すると、婆さまが頷いた。

 「比売田のアヤメの孫じゃね。アヤメはべっぴんじゃった。多氏の邸に共住みを決めた時は、男衆が悔しがったものよ。」

 安麻呂の祖母は珍しく、都の祖父の家に共住みした。祖母が他の男に手出しされないように、口説いて連れ帰ったのだと聞いたことがある。よほど評判の美女だったのだろうが夭折し、安麻呂は会ったことがなかった。

 「こんなにたくさん。ほんにありがたいことじゃ。大刀自さまには重ねてお礼を伝えておくれ。わしが行かねばならんところじゃが、今は里を離れられん。男手もたくさんよこしてもろうて、まことに助かった。」

 婆さまが里を離れられないのは言われなくともわかる。どうやらこの辺りに集められているのは怪我人のようだ。老いた者が多いようなので全員が本復するとは思いにくい。看取りが必要なはずだ。歌っている、ぎりぎり娘と呼べるかという程度のサキの手には余るだろう。

 「婆さま、無理するなよ。」

 心配そうな阿礼に婆さまが笑う。

 「大丈夫じゃ。サキの婿取りも見ずには死なんよ。」

 赤くなった阿礼を見て、どうやらすでに約束があるらしいとわかった。

 安麻呂の胸がまた騒ぐ。

 女を近づけるというのなら、安麻呂のほうがよほど近づけている。だから安麻呂の心を乱すのはそこではない。

 あの阿礼の表情。

 柔らかくて静かな、大切なものを見る目。

 阿礼がサキを得れば、きっと阿礼は変わるだろう。安麻呂との関係にもきっと変化が現れる。

 その予感が安麻呂の心を乱すのだ。

 短い、休暇とも呼べない休暇はすぐに終わる。

 阿礼と安麻呂はその日のうちに都に戻った。


 

 

 

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