第一部16銀の簪

 「おい阿礼、起きてるか。」

 どんどんと戸を叩く音に阿礼は毒づきながら起き上がった。夜明け前に部屋に戻って、まだたいして寝た気もしない。身体を、引きずり上げるように寝床から立ち上がると、戸に噛ませた棒を外した。

 「阿礼、お前どのくらい貯めてる?」

 「は?」

 安麻呂がズカズカ入ってきて戸棚をあける。ゴタゴタ詰め込まれたガラクタをどかし、壁らしく嵌った板を外す。中に納めてあった布や糸を次々引っ張りだした。

 「ひいふうみい…けっこう貯め込んだな。これなら交渉次第で何とかなる。」

 手早くまとめて抱える。

 「安麻呂、お前勝手に…」

 「簪だ。さっさと来い。」

 怒気を含みかけた阿礼にそう言うと、安麻呂はスタスタと歩き出した。

 一瞬呆けた阿礼だったが、安麻呂が抱えているのは自分の物だ。慌てて戸締まりして安麻呂を追う。道々話を聞いてやっと得心した。

 安麻呂は故郷に戻る女官の話を聞きつけてきたのだ。女官は故郷ではたいして使いみちがないからと、装飾品や衣装をいくらか手放すつもりがあるらしい。

 「一時は貴人が何人も通いつめていたとかいう評判の女官だ。それなりの品があるだろう。商人なんぞに見せれば買い叩かれるからな。あっちも直接売る方が得なのさ。」

 話が終わる頃には安麻呂の目的の場所についていた。

 佇んでいる女に何やら安麻呂がささやくと、女はすぐ側の建物の御簾の内に話かける。御簾のうちからは硯箱の蓋に布を敷いたものが差し出される。見ると布の上には三本の銀細工の簪が置かれていた。

 珊瑚の飾りのついた、花の一枝を模したもの。

 複雑に編み込まれた銀線に青い石の飾りが通されたもの。

 阿礼の心を一番惹きつけたのは、銀の花房が三筋垂れ、その先端に透き通る緑の玉を嵌め込んだものだった。

 阿礼の視線で察した安麻呂が、最初に話しかけた女に交渉する。

 女を仲介に御簾の内にとの交渉が整い、蓄えのかなりと引き換えに、簪は阿礼のものになった。

 ひやりと冷たい銀の感触。シャラシャラと鳴る花飾り。あれだけ探してもだめだったのに嘘みたいだ。

 「もし。」

 立ち去りかける二人の背に声がかかり、御簾のうちから再び硯蓋が差し出された。銀の小さな花の中央に、真っ赤な珊瑚玉を嵌めた小さな簪がのっている。

 「思う娘に送るなら添えられてはいかがかと。主からこなたさまの恋の成就を願っての祝儀だそうでございます。」

 そう言うと敷いた布ごと簪を取って差し出した。しどろもどろに御簾の内に礼を述べ、受け取った布に二本の簪を包んで懐に納める。

 「いいのが買えて良かっただろ。」

 安麻呂が少々鼻につくほど得意気なのも気にはならなかった。


 筑紫の地震の報の混乱の中に年は明け、朝廷は中々おさまることを知らなかった。舎人の勤務時間は飛躍的に増え、阿礼も部屋に寝に帰るだけの日が続いた。

 そんな中で安麻呂の手引きによって奇跡的に手に入れた簪は、阿礼としては一刻も早くサキの手にこそ届けたかったが、休みをとる算段がどうしてもつかない。

 なまじ遠くで起きた地震は、故郷を気にしての帰郷の口実にはならず、誰しも不眠不休の同僚を見ては、休みを取りたいと口に出すのも気が引ける。

 阿礼がようやく短い休みをもぎ取ったときには既に二月も半ばになろうとしていた。

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