第一部10天武天皇の御代
和風諡号を
諱を
後世には漢風諡号の天武天皇で知られる御門のしろしめすこの時代、世は事もなしとは到底言えなかった。
大陸の情勢を見据えて中央集権に舵をとった今上の兄、後世に天智天皇で知られる先帝は、自身の即位のはるか前から朝廷を主導した。
白村江の敗戦の衝撃に耐え、更に中央集権に突き進んだ彼が、長年右腕を務めた弟でなく、若い長男に皇位を譲ろうとした理由は、単なる親心などでなく、あるいは父子相続の定着による体制の更なる強化を企図しての事だったのかもしれない。
ただ、実力者である弟を押しのけての皇位の相続は、結果的には乱を招いた。
大陸で上手くいくものが、日の本でもうまく行くとは限らない。国の成り立ちも在り方もまるで違うものを、無理やりにはめ込もうとした軋轢は、大海人皇子という拠り所を得て爆発した。
壬申の戦、そして飛鳥への還都。
先帝の側近として腕を奮った藤原はなりを潜め、大伴などの古くからの豪族が力を取り戻した。
一見、今上によって国の在り方は幾分旧に復したようにも見える。
しかし今上はそもそも先帝の同母弟にして右腕。
まして大陸の脅威が消えたわけでもない。
日の本は結局のところ変化を余儀なくされているのだ。
しかもこの頃地震が多く、天候も不順だった。当然ながら作柄は悪く、人々の胸には不安が芽生えた。
ゆさゆさゆさゆさ
立ち上がれない揺れにサキはどうすることも出来ずに身を縮めた。屋根から埃が降り注ぎ、そこいらに置いたものが転げだす。
サキはとっさに手を伸ばし、いっしょにおいていた人形と貝殻の簪を摑んだ。
大切な宝物を胸に抱き、揺れが収まる事を念じる。
屋根が崩れてくるのではないかと生きた心地もしなかったが、きしみを上げる柱が倒れるよりも早く揺れは収まり、サキは宝物を胸に抱いたまま家を飛び出した。
婆のいるはずの機屋に走る。
機屋は傾いていたが、婆さまはその外で座り込んでいた。
良かった。
声もなくサキも婆さまのそばに座り込む。婆さまがサキをぎゅっと抱いた。
サキの母が死んだのは山津波のせいだ。
ひどい嵐が過ぎてしばらくして、山がいきなり崩れた。その年は雨が多く、山が緩んでいたのだろうと皆が言った。
女たちが皆で使う機屋が埋まり、サキの母だけでなく何人もの女が死んだ。
サキの父は戦で死んだ。
工事のための人手に連れて行かれたはずなのに、なぜか戦で死んだのだそうだ。
もっともサキの父が連れて行かれたのは随分前のことなので、死んだと聞かされた時にもサキは、父の顔を思い出すことが出来なかった。
サキの父だけでなくて、サキの里の男は相当な人数が連れて行かれて戻って来なかった。
人は死ぬ。
本当に、簡単に、死ぬ。
戦と山津波とが、サキの里の里人を減らした。
働き盛りの者から死に、母親が死ねば残された幼子の生命もおぼつかない。働き手が減って暮らしにくくなった里からは去って行く者も多く、残っているのは年寄りばかりだ。
地震にあうのもこれが初めてではない。一昨年の暮れの地震ではまたも機屋が崩れ、死者が出た。サキも崩れた機屋の下敷きにはなったが、幸い重いものに伸し掛かられる事もなく、すぐに外に這い出した。
サキと仲の良かった娘は、母親もろとも亡くなった。
その時の地震は大王への呪詛が起こしたらしいと密やかな噂が流れたのだけど、今度はどうなのだろう。
地震の嫌なところは、決して一度では終わらないところだ。
サキが婆さまのところにたどり着いてすぐにまた揺れ、夜が来るまでに何度も揺れた。
大きく傾いでいた機屋は、何度めかの揺れで倒れた。
その夜、里人はまとまって屋外で休んだ。倒れてまではいなくても、地震のたびに揺れて埃を降らせながら軋みを上げる家の中でなど、休めるはずがない。もっともしょっちゅう揺れる屋外でも、寝られないことに違いない。
あの時もそうだった。
前の地震の時。
崩れた機屋から這い出したサキは埃まみれで、でも水浴びする余裕もなくそのまま暗い屋外でお婆と眠れずに過ごした。
痛みに呻く声や、すすり泣く声が、呆然と座り込む人々の沈黙に染みてゆく。
心細さと、先への不安と、どこかすてばちな気持ちと。
あの時と違って懐には、阿礼に貰った人形と簪がある。宝物をぎゅっと押さえていると、少しだけ気持ちが落ち着いた。
うつらうつらとした浅い眠りは、揺れや悪夢ですぐに覚まされてしまう。
朝日を見たときには途方もなくほっとした。
朝が来ても地面は揺れ続けるのだろうが、朝が来ないよりはずっとよかった。
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