第一部8安麻呂の至高
「お前本当に今まで御門のご尊顔をわかっていなかったのか? 呆れたやつだな。」
安麻呂は阿礼の話を聞いて逆に驚いた。
御門はとても印象的な方だ。遠目でも一度拝すれば決して忘れられない類の。
もっとも、楽に携わっている安麻呂は、阿礼より遥かに近い場所で御門のご尊顔を拝している。真礼もそうだ。
それどころか安麻呂は、直接にお言葉を賜ったことも一度ではない。
筑紫やそこにやってくる外国の人々についての御下問を受けたことが何度かあったからだ。
御門は猛々しく恐ろしい方だと先輩の宮人たちは言う。
安麻呂たちが出仕する前の年に大きな戦があった。御門は、前の御門の譲りを受けた皇子を倒して、今の御門の地位を勝ち取ったのだ。その戦の有様を見た者が御門を猛々しいと言うのは当たり前なのだろう。
しかし安麻呂にとっての御門は、いつも重々しく頼りがいのある、良い主だ。筑紫での面白い話など披露すると声を放って笑われることさえある。だから安麻呂は御門に親しみとまでは恐れ多くて言えないながらも、自らの主としての尊敬を寄せていた。
「しっかりしろよ。出仕して何年めだ?」
いつものように酒をついでやりながらどやしつけると、阿礼が面目なさそうな顔をしていた。大舎人寮でも相当笑われたらしい。
「もう覚えた。大丈夫だ。」
歌や物語なら一度聞けば決して忘れないくせに、阿礼には妙なところで抜けたところがある。たぶん興味のないことにはほとんど関心を払っていないのだろう。仮にも御門に仕える舎人が御門に「関心がない」というのはそもそもどうなのかという話ではあるが。
ただ、そんな阿礼にも初めて目の当たりにした御門は強い印象を残したようだった。
安麻呂が初めて御門の玉顔を拝したのは、出仕して幾らもたたないころだ。その日は猿女の奏者を初めて務めた日で、久方ぶりに真礼の顔を拝んだ日でもあった。
その日、語られたのは東征のひとくだり。
日に向かってはならないという節で、真礼の舞の手が入った。
それはごく短い下りだったし、動きも小さかった。
それでも声にならないため息が、空気を揺らした。
真礼はいっそう美しくなり、その声は伸びやかさを増していた。どこまでも、高天原までも上ってゆきそうな澄んだ歌声に、その声に見事に沿った舞の動き。
安麻呂の胸に痛みが走った。
安麻呂だけが知っていた、もはや失われた相舞が、たどり着いたかもしれない片鱗を、安麻呂は真礼の舞に見ていた。
それは美しいけれど、至高ではない。
至高は、その可能性は、すでに失われているのだから。
安麻呂はふと目をそらして、そうして気づいた。食い入るように真礼を見つめる人々の中で、御門だけがあまりにも静かに真礼を見つめていることに。
初めて見る「最上」に魅せられている人々の中で、その落ち着いた御門の姿はひどく印象に残った。
安麻呂には御門が、さらなる高みを見たことのある人のように思えたのだ。ちょうど安麻呂自身がそうであるように。
やがて幾度かの御下問に答えたりするうちに、それは確信に変わった。
御門の視野は広く、その向かうところは果てしない。
安麻呂が真礼の歌や舞の、より高みを見ていたとすると、御門は猿女の語るより、遥か彼方の物語を思っていたのだ。
それはいずれ未来で語られるべき、御門を含む物語なのだろう。
酒の肴に散々からかった阿礼は、やがてふてくされて寝てしまった。空になった酒器や皿を、まとめて部屋の隅に寄せる。
阿礼の部屋の荷物は少ない。
最低限の食器と最低限の着替え。それで全部だ。
いや、隅の棚にあと少し荷物がある。
桜貝の包まれた布と、それを糸で貫いた飾り。
どうやら阿礼は自分で思うような簪を作ってみることにしたらしい。糸で貫かれた桜貝は、ちょうど藤の花房のような形に整えられていた。
ちょっと持ち上げてみると、サラサラと軽やかな音をたてる。
海で生まれたはずの貝殻が、梢を渡る風のような音をたてるのが、ちょっと不思議なように安麻呂には思えた。
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