第一部6阿礼とサキ
サキに櫛を贈った最初の里帰り以来、阿礼はちょくちょく里に戻るようになった。
里に戻り、サキのところに顔を出し、サキの新しく覚えた歌をきいて、都に帰って来る。
思ったような美しい品はなかなか買えなかったが、髪紐や、良い香りのする木の簪、都風の衣装を着た小さな人形などを買い求め、サキへの土産にした。
中でも人形はサキをとても喜ばせた。
木を彫った顔と胴に、端切れの衣装を着せた人形は、阿礼の手のひらにのるほどの大きさだが、裙に背子、被礼まで着けている。
その人形を贈って以来、サキが人形の服を縫うのに欲しがるので、土産は端切れが多くなった。
自分の身を飾るよりも、人形に夢中サキの様子に阿礼は苦笑しながらもホッとした。サキがそんな風に幼く子供じみている間は、自分以外にサキに通おうとする男も現れまいと思ったからだ。
その日も阿礼はサキが喜びそうなものはないかと探しながら、市を歩いていた。最初に思い浮かべたような簪はなかなかなく、あってもかなり高価で買えない。
こつこつ貯めてもいるが、里に戻ることが増えた分小さな出費もかさんで、中々思うような金額にまでは貯まらななかった。
市の隅にはいつも商売をしているわけではない、地方の行商人が粗末な店を並べている。意外にこんな店に掘り出し物があったりするもので、阿礼も時間のある時にはよく見てまわる。今日の阿礼には幾分かの運があったようで、良さそうな品を見つけることができた。
それは麻布に盛り上げられた貝だった。
おそらくその麻布に包んで運んできて、ただ広げただけなのだろう。薄くて小さな、小指の爪ほどの薄紅色の貝殻がひとつかみ程無造作に盛られている。
一緒に並んでいるのは魚や海藻の干物などで、その貝殻が明らかに異質だった。
阿礼は用意していた麻糸を出した。
しっかり紡いである丈夫な糸で、長さもかなりある。試しに貝殻と干し魚三匹と交換しようと持ちかけると、貝殻と干し魚一匹なら応じると言う。そこでしばらく話し合い、貝殻と干し魚二匹で話を決めて、阿礼は糸と引き換えに魚と貝殻を受け取った。
どうやら阿礼には惚れた女がいるらしい。
舎人の宿舎の阿礼の部屋で、持参の酒を傾けながら、安麻呂は阿礼の手元を見ていた。
阿礼は右手に石を持ち、爪をやするような仕草を繰り返している。左手に持っているのは薄い花びらのような貝殻で、阿礼はそこに小さな穴をあけようとしているのだ。
広げた布の上には、うまくゆかずに割れた何枚かと、首尾よく穴のあいた貝殻がかなりの数置かれている。別の布の上にはまだ穴をあけていない貝殻が小さく盛られていた。
「まあ、こんなもんだろう。」
阿礼は穴のあいた貝殻と、まだ穴をあけていない貝殻を別々の布に包んで片付けると、安麻呂が酒を注いでやった器を手に取った。肴は阿礼の部屋にあった干し魚だ。阿礼が作業をしている間に、安麻呂が厨で炙ってもらって来た。
なんであれ作業に没頭すると、区切りのつくまでやめようとしないのが阿礼の癖だ。安麻呂の方も慣れていて、さっさとやれることをやって先に始めておく。
「なんだ、女にでも贈るのか? 何を作る気だ?」
単刀直入に尋ねると、阿礼がちょっと笑った。
「サキの土産にするんだ。」
サキ、というのはヒメダの里のそばに暮らす小さな集落の娘らしい。確か、小さいながらも古い言われのある一族で、若者がひどく少なく存続を危ぶまれているような集落だった筈だ。
「この貝殻なら簪なんぞの飾りにしても良さそうだろう?」
割れた貝殻をいじりながら、本当は采女のつけてるような銀と玉のを買ってやりたいのだと話す阿礼の表情は、柔らかく嬉しそうで、どう見ても想う女の話をしている風情だった。
安麻呂には実は通う相手が何人かいる。
ただ、今のところこれという決め手にかけて、どの女ともつかず離れず続いている程度だ。安麻呂に複数の相手がいるように、女の方も他にも通わせる相手がいるのかもしれない。
そんな安麻呂からすると、阿礼の様子は他人事ながら面映ゆく、しかし不思議に眩しくもある。同い年の男同士でも、安麻呂は中途半端に女というものにすれていて、しかもその事を自覚していた。
筑紫での日々は安麻呂に多くの事を教えた。女というものもその一つで、海を渡って来た豊満な肉体の舞姫は奔放であけすけだった。あれは恋というよりも、もっと本能的で獣じみたものだったようにも思う。ただ、最初に通り過ぎたのが彼女であったせいか、都の女が取り澄ましているように思えるのも事実だ。その事が安麻呂を女に入れ込ませずにいるのは確かだった。
魚の干物は小ぶりだったが、身が厚く脂がのって美味かった。
魚に舌鼓を打ち、酒を酌み交わすうちに夜は更けていった。
「できた。」
人形に作ったばかりの単を着せる。人形といっても頭と胴しかないのだけれど、衣装を着せればちゃんとした人形になる。顔と髪型はきちんと彫って色も塗ってあるので、小さなひめのようでとても可愛い。婆様に習った歌に小さな、親神の指の間からこぼれた神の話があったけれど、きっとこのぐらいの大きさなのではないかと思う。
淡朽葉の単に濃い青の裙、山吹色の絹の背子を着せると季節にふさわしい秋めいた装いになった。阿礼のいる都にはこのような美しいものを纏ったひめがたくさんいるのだろう。
翻って我が身を見ると、麻のちはやに袴、形ばかりの裙からは脹脛が見えかけている。この衣装はサキが自分で糸を紡ぎ、機に織り、始めて一人で縫い上げたものだ。だから恥じるような物とは思わないけれど、華やぎや彩りに欠けるのは事実だった。
かと言って、自分がそのように華やいだ衣装を纏うことは、考えるだけで気後れがする。
娘なら誰でも華やかな衣装に憧れるものだけど、衣装の方だって自分に相応しい美しい娘に纏われたいと願うのではなかろうか。
一度そんな風に思ってしまうと、サキには自分がそのような衣装を纏うのは衣装に悪いような気さえしてくるのだった。
阿礼はサキが身につけるものもあれこれとくれたが、サキが普段身につけるのは、最初にもらった櫛と、萌黄色の髪紐だけだ。今も萌黄の紐で結んだ髪に、櫛を落ちないようにきゅっと挿している。
そんな風に髪を整えるようになってから、サキが急に娘めいてきたという評判を、サキだけが知らなかった。
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