第一部5猿女真礼と舎人阿礼

 真礼の朝は早い。

 夜明けより早く起き出し、身支度を整えて朝日へと祈りを捧げる。

 かつて大王は太陽の女神の孫であった。だから遥か祖先であり、国の守り神でもある太陽には、何よりも敬意を払わなければならない。

 天孫降臨の偉業を讃え、国の礎の物語を歌う。

 それからは日によってその日祀られる神のために歌い、そうでなければ定められた控えの間に静かに座す。

 都に上って以来、それが真礼の日常だった。

 そこに不満はない。

 猿女としての重要な仕事だ。

 ただ、時々故郷の里が無性に恋しくなる。

 厳しく作り上げられ、美しく整えられた宮は素晴らしく、猿女は相応の敬意をもって扱われている。しかし里でのように自由に表を歩き散策する事は出来ない。

 双子の阿礼が舎人として出仕していることも知ってはいるが、とうてい顔を合わすことなどできないこともわかっていた。

 一時、同じ家に暮らしていた多氏の安麻呂の方は、同じ楽に携わる側面があることで、たまさか顔を見かけることもあるが、やはり面と向かって話すわけにはいかない。

 実はこの数十年、猿女の権威はやや揺らいでいる。

 六代前の大王の御代に日輪が欠けるという凶事があった。猿女はかつて祖神が行なったという伝承にそって歌舞を奉じ、無事に日輪の欠けは正されたが、時の大王が五日後に崩御された。

 すでに相当に老いておられた大王が、蝕の気に耐えきられなかったのだと言われているが、猿女の力不足を糾弾する声も上がった。

 そうでなくても世の中は動いている。いまや猿女のような太古の系譜をひくはふりよりも、大陸から伝わってきた技を使う陰陽師や僧が幅をきかせているのだ。気を抜いて更に権威を貶めるようなことがあってはならない。

 荒く編んだ簾越しに見える庭の、僅かな花しか変わり映えのしない景色を眺めながら、真礼はいつもの物思いを巡らせていた。


 (おおやってるやってる。)

 大舎人の教練のそばを通りかかった安麻呂は、その中に阿礼の姿を認めた。

 阿礼の動きは美しい。ただの剣の教練が剣舞の如く整っている。

 双子の真礼の舞も見事なものだ。やはり双子ということで、いろいろ似たところがあるのだろう。

 安麻呂は子供の頃に二人が息を揃えて歌うのを聞いたことがある。透き通る歌声とふとした仕草が見事に調和したその光景はまるで動きの少ない舞のようで、今でも思い出すたびに胸が痛くなるほどに美しかった。

 あの美しいものが、ほとんど誰の目にも触れることなく失われたということを、安麻呂はとても惜しいと思う。あれ程に美しいものは、もっと多くの目に触れるべきだった。

 しばらく眺めていると教練が終わった。

 気づいていたらしい阿礼が駆け寄ってくる。

 「来てたのか。」

 「通り道だったのさ。」

 安麻呂は手にした譜を掲げて言った。

 譜は伝来の新しい知識だ。楽器の音や弾き方を指定することで楽を記録しようという試みだが、まだまだ完成度が低く、記述形式もわかりやすくはないので、解読は大仕事だった。

 安麻呂は積極的に譜の研究を進めている。どうやら楽器の演奏よりもこういう読み書きのようなものに向いている質らしい。実際、安麻呂は譜の解読をしていれば寝食を忘れるが、楽器の修練にはそこまでの情熱を持てないことを自覚していた。一族の年長者や父などには、とても言えない話だ。

 「譜か。お前好きだな、そういうの。」

 阿礼も安麻呂に譜を見せてもらった事はある。その内容を解説してもらったこともあるが、今ひとつ感覚として捉えられずにいる。

 阿礼にとっての文字はしるしだ。記号といったほうがわかりやすいかもしれない。物や現象の名前に対応して文字があるのだと理解している。

 その阿礼の感覚からすると、楽を記すということに違和感がある。

 例えば布が三反あるとして、布と三は別々の言葉だ。だからそれぞれに文字があり、それを並べて書き記す。

 しかし楽というものはそういうものではない。その楽を記すということが阿礼には感覚的に理解できなかった。

 「そういえば昨日、真礼を見かけたぞ。」

 全く顔を見かける事もできない阿礼とは違い、楽に携わる安麻呂は真礼を遠目に見かけることならそれなりにある。だからこうして顔を合わせれば、様子を阿礼に知らせていた。

 「いつも見事な歌と舞だ。今いる猿女の中では一番じゃないのか。」

 そう言うと、阿礼がちょっと眩しそうな、そして嬉しそうな顔をする。

 実際に真礼はその見事な歌舞ですでに名高いが、安麻呂は阿礼が女だったらどうだったろうと思うことがあった。きっと真礼に勝るとも劣らぬ名手だったろう。そして猿女の名を二人で更に高らしめたに違いない。

 あの歌。

 子供の頃の二人が歌った姿。

 あれが成長した乙女として相舞われていたらと考えるだけで、安麻呂はぞわりと総毛立つような感覚に襲われる。それはきっと恐ろしいような、神々しいまでの美しさであったに違いない。

 そしてこの世にそれが現れなかったことに、惜しいようなホッとするような、妙な感慨をおぼえるのだった。

 ほんの少し話すだけで小休止は終わり、阿礼は足早に戻っていった。阿礼をしばらく見送ってから、安麻呂も仕事にもどった。

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