第一部4小鳥の櫛

 結局、阿礼がはじめて比売田の里に戻ったのは、出仕以来二年以上たってからだった。阿礼は十九になっている。安麻呂も真礼も同じ年齢だが、この二年の間真礼とは一度も顔を合わせていない。

 この年の師走に大きな地震があった。

 地震は飛鳥近辺に被害をもたらした。

 当然ながら宮廷も混乱し、年の瀬になって阿礼は何とかわずかな休暇をとり、比売田の里に向かった。

 里は意外に変わっていなかった。

 壊れた建物もあったようだが里の男たちによっていち早く再建され、死者や怪我人もそれほどなく済んだらしい。

 大変だったのはサキの里だった。

 女たちの集まる機屋が崩れ、幾人かの死者が出ていた。

 サキも巻き込まれたらしいが、幸い軽い怪我ですみ、阿礼を迎えてくれた。

 サキは十二になっていた。

 黒髪は背の半ばまで伸び、手足は一層しなやかに伸びて、声は柔らかな響きを持っている。

 サキと向かい合って、阿礼は自分の背が随分と伸び、身体が角張ってきていることを強く意識した。

 男の中に入れば相変わらず小柄な阿礼も、サキに比べればかなり大きかったのだ。

 中々帰って来なかったと、すねたように言うサキも、阿礼が土産の櫛を渡してしばらく機嫌をとると、やっと機嫌を直して二年の間に覚えた物語を歌い始めた。

 休暇は短かったので、阿礼はまたバタバタと都に戻ったが、久しぶりに会ったサキは鮮やかな印象を阿礼に残した。

 十二、次の正月で十三。

 まだまだ子供じみているとは言え、十三と言えばそろそと娘と呼べる年頃だ。あと二年もすれば歌を歌いかけ、戸を叩く男が現れてもおかしくはない。

 そう考えて、阿礼はそれを嫌だと思った。

 誰よりも早く自分がサキの枕べの戸を叩き、誰にも触れさせる事なくサキを得たい。

 サキの婆は簡単に孫娘を誰かに許すような事はしまいが、それでもいずれはサキに婿を迎えるだろう。

 その、未知の男に阿礼は激しい憎しみを覚えた。

 いや、必ずしも憎む必要はないのだ。阿礼がその男になればいい。

 ただ、それは簡単なことでもない。

 阿礼は舎人だ。

 都で朝廷に仕えている。

 そしてサキはサキの一族の語り手を継ぐ娘だ。

 サキは里を離れられず、阿礼は都を離れられない。

 離れていると言っても都から里は遠くはない。通うのは不可能ではないかもしれない。

 それでも訪れる事のできる日は限られるだろうし、サキに他の男が通う隙が出来るのは間違いないだろう。

 いや。

 阿礼は頭を軽く振り、先走る考えを振り払った。

 まずはサキの同意を得ることだ。 

 そうでなければ始まらない。あとのことを考えるのはそれからで構わない。

 (もう少し華やかな櫛にすればよかったかな。)

 サキへの土産に渡した櫛は栗の木の櫛で、磨き込まれてはいたけれど、装飾は片面に小鳥が彫り込まれているだけだ。

 その小鳥の愛らしさがサキに似合うと思ったのだが、そろそろ娘になろうというサキにはもう少し華やいだもののほうが良かったかもしれない。

 (市をちょくちょく回ってみるか。)

 舎人の碌はしれているが、あまり金を使わない阿礼は懐にいくらか余裕がある。まめに探せばよい出物に当たらないでもない。

 (できれば舞うときに揺れるような。)

 宮中で見かける采女の姿が浮ぶ。動くたびにサラサラと鳴る、銀や玉を連ねた簪。どうせならああいうものが良い。サキの黒髪に映えるだろう。

 ああいう美しいものを贈れば、サキはどれほど喜ぶだろう。

 早くその顔が見たい。その顔にふさわしい品を見つけたい。

 どことなく重かった足取りも今は軽く、阿礼は都への道を急いだ。


 つやつやとした櫛に彫られた羽ばたく小鳥を、サキがそっと指でなぞる。

 小鳥は嘴に藤かと思える花房をくわえている。その花房は長くのびて、櫛の左に垂れて彫り込まれているのがちょっと面白い。

 丸い目の小鳥はとても愛らしかった。ただの線彫りではなくて、ちょっと浮彫のように立体的に彫られている。つやつやとしているのは丁寧に磨いて油を塗り込んであるからだろう。

 櫛は可愛いだけでなくて、とてもとかしやすかった。そっと髪に通すとさらさらと音をたてる。サキはなんだか嬉しくて、日に何度も櫛で髪をとかした。そうすると髪がなんだかしっとりと冷たく、艷やかになってくるような気がする。

 そして髪をとかすたびに、その櫛をくれた阿礼の事を思い浮かべた。

 本当は、拗ねたというより戸惑っていたのだ。阿礼が本当に男の人のようだったので。

 そんな言い方をすると妙な感じではあるけれど、サキの知る阿礼はもっと小柄で女性と見まごうような美しい少年だった。あまり男の人という感じがしなくて、とても親しみやすい相手だったのに、久しぶりに会った阿礼は背も高くなり、肩幅もがっしりして、もう男の人以外のなにものでもなかった。

 サキは男の人があまり得意ではない。

 身体も声も大きいし、集団で大笑いなどしていると、本当に怖いと思う。

 阿礼もそんな中の一人なのかと思うとちょっとの怖くも思ったのだけど、サキの機嫌を取ろうと話しかける阿礼は少しも怖くなかった。背もサキよりは随分大きいけれど、男の人の中では小さいぐらいだ。

 それでいて里の男達の中にいてもとても目立つ。

 あとで里人が、さすがは都の舎人だけある、阿礼どのは垢抜けているとか噂をしていたけれど、それは違うとサキは思う。

 阿礼はもともと飛び抜けて美しいのだ。

 顔立ちだけでなく、声も所作も、昔から里人の男とは違っていた。すっかり男の人になってしまっても、阿礼の美しさは失われていない。だからこそ阿礼は人の目をひくのだ。

 丁寧に、丁寧にとかした髪は、もうわずかにからんだところもうねりもなく、サラサラと流れている。それでもサキはぼんやりと阿礼の事を思いながら髪をとかした。

 そんなサキの様子を、婆様がそっと見ていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る