第一部3阿礼の出仕

 なろうと思えばアレが舎人になるのはたしかに難しいことではなかった。

 小柄であるのが難ではあるが、見目の良い腕の立つ若い男は、舎人として歓迎される。そして氏族としても、舎人を全く出さないというわけにはいかない。アレが望めば話はトントンと進んだ。 

 アレを育てた婆は舎人になりたいというアレに、何も言わなかった。

 舎人として出仕する三日前、アレはサキの里に出かけた。

 アレがいてもいなくても、ヒメダとのつながりは絶えないのだから、サキにもアレの出仕の話は伝わるだろうが、自分で直接伝えたいと思ったのだ。

 サキは歌える物語を増やしており、アレは新しい物語を知ることが出来た。

 「都に? なぜアレがいくの?」

 肩の下で切りそろえたつやつやした黒髪を揺らして、サキが首を傾げる。

 言われてみると必然性はない。ただ、マレもヤスも出仕したことで、自分も都へ行きたいと思ったに過ぎないからだ。

 置いて行かれたくない。彼らと同じ景色をみたい。動機としてはその程度なものだ。

 ただ、あえていえば里に留まる積極的な理由があるわけでもない。

 そんな事を説明すると、サキがちょっとむくれたような表情を見せた。

 「せっかく歌を覚えても、アレに聞いて貰えないじゃない。」

 アレは慌てて、都は近いし度々帰って来るつもりだから、その時に聞かせてもらうと約束し、必ず土産を持参するとなだめた。

 

 舎人になるのに特別な準備はいらない。

 特にヒメダの里は都から近く、元々大道の警備をしている。最低限の着替えに水と屯食でも持てば十分だ。

 サキの里に出かけた次の日の午後、サキが新しい衣を届けてくれた。サキの婆と二人で急いで縫い上げてくれたらしい。帰り道が暗くなるからと、サキは急いで帰って行ったが、アレはその心尽くしをありがたく荷に加えた。

 出発の日、夜明けと共に里を出たアレは、大道から里を振り返った。堀をめぐらして柵に囲まれた里の家々は、屋根だけしか見えなかった。


 出発にあたりアレはお婆から文字を教わった。教わったのは氏族の名を表す比売田と名前の阿礼。あとは数を表す文字だ。

 「あとは入りようなものをおいおい覚えれば良い。全くわからぬでは不便なことあるからの。」

 都につき、舎人として出仕してお婆の言う意味はすぐにわかった。まず示された竹簡に名前を書かなければいけない。拙い文字ながらもなんとか書くことができてアレはホッとした。

 これからアレは比売田阿礼と呼ばれるようになる。従って以降は文中でも阿礼と記述を改めたい。呼ぶ側にも呼ばれる側にも「阿礼」の字が浮かぶなら、「阿礼」と呼ばれているとして差し支えないかと思う。

 阿礼の務める事になった舎人という職は、宮中での警備や雑用を担当する。天皇家の側近と言うべき役割の一つで、歴史的に天皇家に近い氏族から召される事になっていた。かつて天孫を先導した祖先の伝承を持つ比売田氏も、そこに含まれる。

 阿礼はまず舎人として仕えるための心得をたたき込まれることとなった。

 武芸一般に礼儀作法、更には最低限の読み書きが求められる。名前と数だけしか読み書きできない阿礼ではあったが、それが特に例外的というわけでもなく、同じ年頃の若者と共に学ぶ生活にすぐに馴染んだ。

 ただ、当初思っていたほどにマレやヤスと会えるというわけではなかった。それでも多安麻呂おおのやすまろと名乗りを整えたヤスとは折に触れて話すこともあったが、マレと会うことはない。

 マレは名を猿女真礼さるめのまれとして、宮中の奥深く暮らすようになっていた。猿女はただの歌い手、舞手ではない。かつて天孫に従ったという女神と、天孫を先導したという男神の裔であり、古い物語を伝承する猿女は巫女と同じ扱いをうける。巫女が軽々に宮中を出たり、身内といえども男子と面会するはずがなかった。

 同じ都に双子の姉弟がありながら、顔を合わすこともないままに、いくつもの季節が過ぎていった。

 

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