第一部2多氏のヤス

「アレ! アレじゃないか。」

 聞いたことのあるような、ないような声に振り返ると、なんだか大きな生き物がいた。

 自分よりかなり高い位置の顔を眺めて、一拍遅れて理解が届く。

 「ヤス? お前ヤスか?」

 アレは同じ年頃の男子の中では小柄な方だ。しかし、それにしてもヤスは大きかった。アレよりも頭一つ分も大きいのだ。

 「ずいぶん伸びたな。おい。」

 「行く先々で言われるよ。」

 ヤスはそう言って、人の良さそうな顔で笑った。

 ヤスはヒメダ氏と昔から付き合いのあるオオ氏の長の息子だ。オオ氏はヒメダ氏の詠唱に対して雅楽を司る一族だ。祭の折などに楽を奏し、時にその楽にのせてサルメが歌う。

 関連する職能をもって朝廷に仕える氏族どうし、付き合いがあるのは当然だった。

 オオ氏は物語を歌うサルメとは違い、楽器を奏するのが職能であるので、いつでも楽器の改良や試作を怠らない。他国の知識にも明るく、奏者は男が多かった。

 力や息のいる楽器の演奏には、男の方が向いているからだ。

 ヤスもまた、大陸の楽の知識を学ぶために、一族の年長者に従って遠く筑紫まで出かけていたはずだ。

 「筑紫はどうだった?」

 「おお、面白かったぞ。」

 話を向けると勢い込んで乗って来るところは記憶のままだ。

 まだ声の変わらない頃、ヤスは一時ヒメダの里に暮していた。ヤスの祖母がヒメダの出身だったからだ。預けられたのは長老であるお婆のもとであったので、アレやマレとも親しんだ。一緒に暮らした時間はほんの二月程に過ぎなかったが、ヤスが筑紫へと去って行ったときは随分寂しい思いをしたものだ。

 ヤスは筑紫で見たという海の向こうの人間や、新しい楽器、艶やかな舞姫の話をした。それはどれもアレには珍しく、面白い話だった。

 一通り聞くと近況を問われた。

 「マレがサルメとして都に上った。俺は大道の警護の数に入った他はかわりばえしないね。」

 アレにとっては声変わりしたことはあまりに大きな変化だったが、それは口にできない。

 当然ながらヤスの声も変わっている。男が十七にもなれば、声は低く変わっているのが当たり前だ。その事実を一人嘆くことはさすがにしかねた。

 「じゃあ都に上ればマレがいるんだな。」

 そうか、ヤスは都へ行くのだと、今更ながらアレは気づいた。マレがサルメとして上った宮廷に、ヤスもまた上るのだ。

 置いてきぼりを食らったような情けなさが、じわりとアレの心に染みた。

 「なんだかつまらんな。アレだけいないというのも。アレも都へ上れよ。」

 まるでアレの心が通じたかのようにヤスがそんな事を言い出す。

 「いや、無理だろう。サルメになれるのは女だけだ。」

 わかりきった話だ。アレは男だから物語を歌うことは出来ず、サルメになることもない。ヒメダからサルメとして出仕するのは女だけだ。

 「サルメはそうだろうけど、舎人か何かとして出仕できないわけじゃないだろ。」

 そう言われてアレはきょとんとした。一族で出仕といえばサルメのはなしになるが、確かに舎人をつとめている者もいる。そもそも一族の男の仕事は大道の警護だ。舎人とそれほど遠い仕事ではない。

 「お前なら舎人として出仕するのに不足はないだろ。ちょっとがんばって都に上れよ。」

 友人の言葉にアレはちょっと考え込んでしまった。


 ヤスにとってヒメダの双子は特別だった。

 預けられたヒメダの長老のもとに双子がいなければ、二ヶ月に及ぶヒメダでの滞在は随分辛いものになったことだろう。

 見た目も声もそっくりな双子の片割れが男だと聞いたときは、かなりの衝撃を受けたものだ。

 どこから見ても美少女のアレは、かなり活発な少年だった。弓でも剣でもかなり自在にこなす。双子のマレが見事な歌と舞をこなす見た目通りの美少女であったので、アレの存在はかなり印象的だった。

 しばらく一緒に暮らすうちに分かったのは、アレがマレに劣らない歌い手であると言うことだった。習ったことのない舞はさすがにまえないようだったが、他人の目や耳の届かない場所で、二人はよく声を合わせて歌っていた。

 サルメになることができるのは女子だけなので、男子は歌ってはならない決まりだ。そうでなくとも高く透き通る音を含んだサルメの歌は男子には歌うことができない。

 今思えばあの頃のアレの声は、声変わり前ゆえの特別な美声だったのだろう。

 そっくりな二人が無心に声を合わせて歌う光景は、今でもヤスの胸の奥深くに刻み込まれている。

 だから、久しぶりにアレに出会ったときはその変化が胸に痛かった。

 男としては小柄でも、随分と伸びた背に硬い線を描くようになった身体付き。顔立ちだけが女と見まごうばかりに美しい。

 そして声。

 アレの声は既に掠れた男の声に変わっていた。

 アレは歌うのが好きだった。

 禁じられても結局すべての歌を諳んじて、マレと一緒に歌ってしまえるほどに。そのアレにとってあの美しい声を失うことは、どれほど辛い事だったろう。

 その辛さをわずかも見せない事が、かえってアレの傷の深さをものがたっているようにも思える。

 マレは既にサルメとして都へ上ったのだという。このまま自分も出仕すればアレは取り残されたように感じるのではないか。

 それは嫌だと感じた時に、その言葉はするりと出た。

 「なんだかつまらんな。アレだけいないというのも。アレも都へ上れよ。」

 そうだ、アレも都へ上ればいい。アレは弓も剣も自在にこなす。舎人として都へ上るのはそれほど難しくないはずだ。そうすればまた三人で話せる事もあるだろう。

 それは我ながらとてもいい考えに思えた。

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