第一部1比売田の双子
袖が、被礼が翻る。
手巻の鈴が鳴る。
そして朗々とのびる声、言葉。
紡がれる言葉、言葉、言葉。
歌い上げられる物語。
アレはそれを全身で受け止める。
言葉は胸に傷を刻む。
傷は甘く、鋭く、深く、疼く。
アレの胸の無数の傷は、自ら舞い上がり、歌い上げられる事を望む。
生きたい、活きたい、行きたい。
再び、新たに、言葉として。
けれど、それはけっして叶わない。
アレは男で、男はサルメにはなれないのだから。
アレはヒメダ一族を治める、サルメの長老に育てられた。アレとマレ。二人は双子で、彼らを産んだ母は産後の難を越えられずに死んだ。長老が何故に赤子であった二人を引き取ったのかはわからない。ただ、双子の片割れであるマレは幼い頃から、サルメの職能である物語の詠唱に卓越した才を見せた。
サルメというのは一族の女だけが受け継ぐ職能である。優れたサルメは
アレはマレの片割れだ。
幼い頃はどちらがどちらかわからないほどに、姿も声もそっくりだった。
違うところはただ一つ。
マレは女で、アレは男。
それだけだ。
しかし、その違いは大きかった。
サルメ足り得るのは一族の女子のみ。男子には戯れに詠唱することも許されない。
アレは歌いたかった。
サルメの長老である婆に育てられたアレは、当たり前のように物語に触れて育った。
まだ神のうちである七つまでなら、子供に男女の違いはない。アレはマレと共に聴き覚えた物語を歌った。覚えるというだけならマレよりもアレの方が早かった程だ。だから七つの正月を迎えて正式に一族の子となり、歌を禁じられたのは辛かった。
マレは歌う。
朗々と延びる声。
次の正月で十七になろうという今では、マレを上回るような歌い手はすでにおらず、近々サルメとしての出仕も決まっていた。
アレはマレの歌が好きだ。
歌を禁じられて数年、声変わりを迎えたアレには、もうマレのように歌う事はできない。
それでもアレは物語を覚えることを、やめる事はできなかった。
出仕に先立ってマレは目尻に彫物を入れた。顔に入れる彫物は殊更に痛むものだが、マレは弱音を吐くことなくその痛みや腫れに耐えた。
腫れの引いたマレの目元には鮮やかな線が描かれていた。目の力を強めるサルメの紋様は、言葉に寄せられる禍つモノに付け入られないための呪いだ。それはヒメダの里から離れ、宮中で歌うサルメには必須の呪いだった。
美しく若く、才能にあふれた新しいサルメを、一族の誰もが祝福する。双子の片割れであるアレにとってもそれはとても誇らしい事だ。
ついにマレがサルメとして出仕するために都に向う前の日、マレの前途を祝って宴が行われた。
酒の席では男も歌う。
それはもちろんサルメの歌う物語ではなく、狩りや、女のことを歌う素朴なただの歌だ。
自らの勲を誇り、女を口説くその歌を嫌うわけではないけれど、アレはやはりサルメの歌う物語が好きだ。遠く時間を超えて受け継がれてきた物語には、胸の奥が震えるような、そんな不思議な力があった。
宴の席をそっと抜け、水瓶を覗く。
映っているのは今もマレとよく似たアレの顔だ。
手に持った消し炭で、そっと目尻に線を引けば、そこには皆に前途を祝福され、送り出されようとする若いサルメの姿が現れた。
アレの背がマレに比べて伸び始め、声が変わってしまうまで、二人は見分けのつかないほどによく似ていた。声も聞き分けることができるのは、二人を育てていたお婆だけだった。
もう、アレには物語は歌えない。
禁じられているだけでなく、歌うための声がない。
朗々と、天へとのびるマレの声。
天に届く澄んだ声を、大人になっても保つのは、女にしかできない技だ。
どうして自分は男なのだろう。
マレとそっくりの双子として生まれながら、なぜそこだけを違えているのか。
アレは変わってしまった自分の声を、ひっそりと憎んだ。
ヒメダ氏の暮らす場所は大道に面し、ヒメダ氏の男はその大道の守りの役割を負っている。それもまた、かつて天孫を導いたという祖先の功績ゆえに任された仕事だ。ヒメダの男たちは十七、八になると交代でその任に着く。
マレがサルメとして都へ去ると、アレもまた大道の警護を勤める人数に入った。
大道を通る氏族は多い。
服装や言葉の訛、入れた彫物などの少しずつ違う人々を眺めるのは、中々に興味深い経験だった。
警護に当たらない時間は今まで通り、畑や田の世話をする。時には近在の集落に手伝いに出かけるようなこともあった。近い集落同士での助け合いは珍しくない。
ヒメダの里から大道とは違う小さな道を行った先に、小さな集落がある。アレはこの集落の手助けに出かけることが多い。小さいが古い歴史ある氏族が住んでいる集落で、宮中の祭祀に用いる麻布を納める役割を担っている。そして古い氏族にふさわしく沢山の物語を抱えていた。
物語を守るのはやはり長老の老女だが、最近歳のせいか声が伸びなくなってきたとかで、十程の孫娘が物語を習い覚えている最中だ。
アレは仕事を手伝いながら、よくこの二人を見ていた。
祖母の歌うあとを追って、孫娘が歌う。間違いを祖母が直す。二人の声が天にのびる。
聞けば覚えるアレは、手伝いに行くたびに新しい物語を覚えた。孫娘の方は苦戦していて、しょっちゅう祖母に直されている。
「どうしてこんなにあるのかしら。とっても覚えきれないわ。」
唇を尖らせてぼやく孫娘は、名をサキと言った。一人でさらっている時に、詩句の間違いを直してやったりしたこともあって、アレはサキと親しくなった。
「サキの声は良くのびる。サキは良い語り手になるよ。」
サルメの物語のような壮大なものはないが、サキの氏族の歌は一族の古い記憶を伝えている。神同士での我慢比べの話など、さりげないが面白いものも多い。
「そうかしら。ならいいけど。」
そしてサキもまた決して歌うことが嫌いなわけではないのだった。
歌はまだまだのサキだが、麻糸はもう達者に紡ぐ。紡ぎながら習い覚えた歌を歌う。そんなサキにつきあうのは、アレにとっても安らかで好もしい時間だった。
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