言の葉の陵

真夜中 緒

序章 古事記

女帝がその内にいます御簾の前には、うず高く書簡が積まれている。

 それは竹簡や木簡ではなく、目の痛くなるほど白いなめらかな紙に、黒々と良い香りの唐墨で選り抜きの写経生達が清書し、銘木の軸に絢爛な錦の装丁を施した、美しい書簡だ。

 安麻呂は手で着物の上から懐を押さえ、呼吸を整えて御前にまかり出た。懐のうちには古い木管が収まっている。それは焚付に使うような粗末な薄板に、乱れた走り書きの文字が記されている。

 そのまま積み上げられた書簡の一番上の一巻を取り、するりと開く。

 ここまで、ひたすらに歩んできた。

 三代前の帝からみことのりを受け、多くの助けを受けながら、多くを失いながら、歩み続けた三十年は、あまりに果てしないようで閃光のように短かった。

 比売田の大刀自、銀鈴、劉、サキ、阿礼。

 失われた人々の声は、言葉は、いつでも安麻呂の内にある。

 もう一度、息を整える。

 「臣安万侶言さく、夫れ混元既に凝りて、気象未だ效れず…」

 かつての阿礼のような朗々とした声ではない。

 老いた安麻呂の声は、幾分掠れがちで震えている。それでも精一杯声を張り、高らかに読み上げる。

 読み上げる安麻呂の内に多くの思いがよみがえる。

 愛したこと

 憎んだこと

 悲しんだこと

 痛みも、熱も、全身の熱の全てひくような衝撃も。

 やり遂げたのだという高揚感よりも、間に合ったという安堵の思いが強かった。

 最初、阿礼と二人で始めた伝承ふることの収集。

 阿礼はそれを墓と呼んではばからなかった。

 今、こうして積み上げた書簡が墓だというのなら、絢爛なみささぎを築きあげたと言えるのではないかと思う。

 言葉という生き物の亡骸を、拾い上げ、埋めるように、ひたすらに書き取り組み立てあげたのが、この多くの書簡だった。

 各地の伝承を集め、この国の成り立ちをつまびらかにした書簡は、帝と帝の治めるこの国に光栄をそえるだろう。ちょうど歴代の巨大な御陵が、誇らかに旅人を見下ろすように。

 「…今に照らして典教を絶えむとするに補はずということなし。」

 安麻呂は遂にその書を帝に献じた。

 伝承ふることの順序を正し、書き上げたふみ

 後の世にいう古事記ふることふみである。

 

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